エロール・フリンとタマネギと

この時期、スペインでは普通のタマネギよりも2割近く高い、色白の甘タマネギ(cebolla dulce)が沢山出回っている。
スライスしてオリーブ油と醤油をたらしてオカカを乗せると、立派な酒肴の一品になる。


このタマネギの外皮をむいてガブリと丸齧りしたら、辛味もえぐみもなくサクサクした食感で甘みがあって結構美味しかった。


なぜ、このような粗野な食べ方をしたのか。それは子供のときに理由があって…


中学生のときに見たエロール・フリン主演の映画:《壮烈、第七騎兵隊:They died with their boots on》の残影だろうと思う。


エロール・フリン演じるカスター将軍は新生アメリカの英雄であっても、アメリカ先住民から見れば悪夢のような存在だったようだ。


カスター将軍を美化したこの映画で僕の記憶に残ったのは:


一つは:カスターの妻を演じるオリビア・デ・ハビランド(東京生まれとのことで親近感があった)が、カスターの好きなタマネギの丸齧りをまねて涙を流し、カスターが大笑いするシーンだった。
僕も真似をしてタマネギを齧ってみたが、何しろ辛くて涙と鼻水が止まらなかった。
それを見つけた兄に、《お前は本当にバカだな》とからかわれたことを覚えている。


だが甘タマネギは違って丸齧りしても涙とは無縁だった。(これが古希を過ぎた人間のすることかと自分でも疑問に思ったのだが)


もう一つは:名誉欲に取りつかれたカスター将軍は、常にサーベルを振りかざし陣頭に立って先住民に戦いを挑んだが、《作戦本部は隊の先頭にあり》と豪語した結果、リトル・ビッグ・ホーンで先住民の巧妙な包囲作戦に会って全滅してしまう。


僕は福島の原発事故のときの菅直人氏の言動は、カスター将軍のミニチュア・パロディー版だと直感したのだった。


緊急事態のときに指揮官はどのような態度をとるべきかを、歴史が教えてくれているのに。


エロール・フリンで思い出すのは、アメリカの傀儡のキューバのバチスタ政権が、カストロとゲバラにあっけなく転覆されたときに、キューバに別荘を持っていたエロール・フリンは、事変を察知して私財を全てアメリカに移し変えていた。


その時にハバナのアメリカ外交官は《万事、異常なし》と本国政府に報告していたという。
キューバに利権を持っていたアメリカ政府が、事前にカストロたちの動きを察知していたら、何らかの手を打っていたのは間違いないので、アメリカ政府も腹を立てたに違いない。


きっと、こういう笑い話を上手くアレンジすれば、一編のソープオペラが書けるのだろう。

 

 

 

 

 

Lauburu | スペインで | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

夏時間

 

土曜日はやっと春らしい暖かな日差しが戻ってきた。


そこで自転車に跨り、国境のビダソア川を渡ってフランスに入り、エンダヤから北に向かって、ビスケー湾を左手に見ながら、海に突き出る双子岩を過ぎて更に先に進んだのだった。

 

久しぶりに気持ちの良い汗をかいた一日だった。

 

帰ってから脚の筋肉の軽い痛みを感じたが気にもせず、夜にベッドで横になったら夜半過ぎに突然、左脚の脛の筋肉に痙攣が起こった。


こむら返りは何度も経験しているが、脛の筋肉のこれほどの痙攣は初めてだった。

筋肉を伸ばすために爪先立って歩いたりして硬直した筋肉をなだめても、横になるとまたぶり返す。

 

そうこうするうちに時計は午前2時を回っていた。そうだ、今日の2時に時計を1時間進めて夏時間になるのだ。

腕時計、目覚まし時計、携帯電話、壁掛け時計2個の時間を早めた後で、横になるのは諦めて居間でぼんやりと考えていた。

 

最近、自転車でハードな運動をすると疲労が残るようになったのは年齢的なものかも知れない。今まで経験したことのない、脛の筋肉の痙攣はその警鐘なのかも知れない。

 

もう古希を過ぎて久しい。

自転車の乗り方、本の読み方、人との接し方など、生活全般に亘って新しい生き方を作り上げる時期だよ、と天が云っているのかも知れない。


難しいことかも知れないが、今までの人生に別れを告げなければ、体力の衰えのままに自分の内に閉じこもって、旧態依然の生活が続くだけだろう、と思う。

 

1時間早めた時計はもう午前4時を回っている。

昔から僕の大好きな時間帯だ。読書をするにも、書きものをするにも、静かで落ちついた素晴らしい時だ。

 

窓を通して、街路灯が柔らかなオレンジ色の明りで照らす、車の往来もまばらなコロン大通りを眺めているうちに、高校生のときに読んだ井伏鱒二氏の漢詩の名訳が、何の脈絡もなく頭に浮かんだ:

 

《花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ》

 

 

 

Lauburu | スペインで | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

初春の風物詩:シドラ(リンゴ酒)

 

バスク地方の晩冬から初春にかけてシドラ(リンゴ酒)は熟成の季節になるので、季節感を確認しに一度はシドレリア(シドラ酒場)に行かないと落ち着かない…季節の風物詩。

 

僕はシドレリアほど、《食べる》、《飲む》ことの喜びが率直に無邪気に現れる場所はないのではないかと思っている…大いに食べて飲むがヨッパライはいない、節度のある野放図。

 

若い女性が肩を組んで歌いだしたりする…昔の新宿の歌声酒場を思い出させる。

 


シドラはもともと醸造所で振舞われたものなので、酒場も昔はリンゴの木の林があった郊外にあって、大きな樽が20近くも並ぶところの床は石版が敷き詰められている。



このスペースでは発酵が進みすぎないように暖房はなしで、厚着して料理とリンゴ酒を賞味するという次第だ。

基本的には立ち食い、立ち飲みで、無骨な木製のテーブルにはテーブルクロスなどは無縁だ。

 

スペインの北部地方では秋になると、小粒で少し赤みがさした青っぽいリンゴが大量に収穫される。

器量も良くなく、食してもゴリゴリしていて無愛想なリンゴだ。

 

だが、今ではもう見かけなくなった日本の紅玉のように、パイにすれば俄然存在感を発揮するように、このリンゴを潰して5000リットルも入る木製の樽に入れて発酵させると美味しいシドラに変身する。

丁度ノルマンジー地方で素朴なリンゴが銘酒カルバドスに変身するように。

 

シドラが飲み頃になるのは早春で、昔は夏が来ると発酵が進んで樽が破裂するので夏前に飲みきったそうだが、今はステンレスの樽のお蔭で1年中飲めるが、早春が旬であることには変わりはない。

 

客が集まると樽の管理人が現れ、皆はグラスを持って彼に続き、彼が樽の小さな栓を開けると放物線を描いて飛び出すシドラを次々に受ける。これは空気に触れてシドラが美味しくなるのを利用する知恵で、気泡が消えないうちに飲みきれる量だけグラスに入れる。




黄色味を帯びたリンゴ酒の度数は約6度で、管理人は発酵の進み方が違う樽を次々に開いては、酒の味の違いを客に賞味させてくれる。

 

 

さてシドレリア料理は3つの定番しか置かないのが決まりだ。

*《タラのトリティーヤ(オムレツ)》:塩抜きをしたタラをほぐして卵と和えてオムレツにしたもの。

 

*《タラのソテー》:塩抜きしたタラを、タップリのニンニクで香りをつけたオリーブ油でソテーしたもの。ピーマンを炒めて付け合せるのが一般的。

 

*《チュレトン》:特大のT−ボーンステーキで、1キログラムは充分にある…これはお変わり自由。

 

たまに味わう、この素朴さがたまらない。

 

これで一人30ユーロ(3500円)…僕はウソだろうと思うほど安いと思うのだが、バスクでは高すぎるという人もいる。

 

戦いすんで日が暮れて…ツワモノたちの夢のあと。

床はリンゴ酒浸し。時計は午前1時半を回っていた。




番外:

見たことがあるような、ないようなシャツを着ていた人がいた。本人は僕に、これは日本語なのか中国語なのかと訊いていた。

 

キャストの名前から見ると、吉川英治の原作を昭和の初期に日活が映画化したもののアドのようだが、日本人のデザインとしては怪しげだし、スペイン人のものとしては纏まり過ぎている。

誰がこのようなデザインをしたのだろう。

 





Lauburu | スペインで | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

食通クラブ(Sociedad Gastronómica)

 

オンダリビアのマリーナの埠頭に,そのクラブはあった。

風はまだ冷たいが、春が近いことを思わせる気持ちの良い日だった。





バスク地方に住む、若い日本の人たちの会合があったので僕も参加させて貰ったのだった。

 

食通クラブでは各人が材料を持ち寄って、厨房では男たちが腕を振るい、テーブルでは女性たち、子供たちが待ち構える、というのが一般的なスタイル。



僕はステーキ肉を買っていって厨房で焼いたのだが、当事者のこととて勇姿?の写真がないのは残念だ。

 

厨房で一番活発だった写真の男性を、彼の仲間は僕に《お師匠さん(maestro)》と紹介してく
れた。なかなか堂に入ったスタイルで、付け焼刃ではないことは一目瞭然だった。

 

僕はこのクラブを本当に羨ましいと何時も思っている。

20〜30人のパーティーが気楽に開けるので、家族で、一族で、友人たちも含めて、食事と会話を楽しむことができる。食材は各人持ちであるし。



日本では多くの場合に、家でパーティーを開けるほどの居間を持っているとしても、主催する家の主婦が全てを背負い込んでしまうので、彼女たちは何の楽しみもない。

そのために若い世代の主婦は、そのようなパーティーは真っ平御免ということになる。


どのように人と集うのかを考える時期に来ていると思う。このままでは社会的な連帯意識は薄れるばかりだろう。

今更、仰々しく《絆》などというのを聞くと、白々しいなと思うだけだ。

 

企業が丸抱えの社員とOBのためのクラブで、利益共同体の見慣れた顔同志が集まりたがるのは醜悪としか思えない。

 

昔、桐島洋子氏が《聡明な女は料理が上手い》という本を書いたが、確かに料理は食材と調味料を合わせた足し算以上のものを作り上げる芸術だと思う。

男女を問わず、空想力、想像力、創造力がなければどうにもならない。

 

日本の多くの男は料理をするなど男の沽券にかかわると思っているようだ。

男の沽券なるものが、もしあるとしても、それは別のところにあるのだということが分かっていないようだ。

 

料理はアンチエイジングの良薬なので興味を持ったら、と思うのだが。

 


Lauburu | スペインで | 19:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

和食の夕べ

 

 

僕の住むイルンの隣町、人口が20,000に満たないオンダリビアで本格的な会席料理を楽しめたのには驚いた。

つくづく食のバスクだな、と感じ入るばかりだ。

 

近年、バスク地方の人気のあるレストランに行くと、盛り付けや素材の扱い方に会席料理の影響が見られ、和の食文化が静かに根を張りつつあるのを感じていた。

そのようななか、オンダリビアのレストラン・アラメダで、日本から調理人を招待して2日にわたって会席料理の夕べが催された。

 

献立は会席料理そのもので一汁三菜が基本になっていたが、三菜は日本で標準的な刺身、焼き物、煮物とは違って、刺身の代わりに煮物が入っていた。

スペインの人は生魚を食する習慣がないために、刺身を煮物に置き換えたのだろう。

 

スペインで手に入る和食材に限界があるので、日本と比べるのは意味がないが、まさかスペインでこんなに本格的な会席料理が食べられるとは。

料金は決して安くはないが、約80席あるレストランで日本人の客は長女と僕を入れて5人だけで、あとはスペインの人々。

和の食文化が静かに根付いているのが感じられる。

これを根付かせた人たちの人生の軌跡は決して楽なものではなかっただろうから、それだけに感じ入る。

 

これが日本料理店ではなく、スペインのレストランでの献立なので驚きだった。

         玉子豆腐

         野菜とエビの土佐酢和え

         玉子焼き、牛肉の八幡焼き(ゴボウはインゲンで代用)

         ナスの時雨煮

         鴨の治部煮

         帆立の昆布締めとマグロのたたき

         スズキの幽庵焼き畳鰯添え

         小エビのかき揚げ

         イカとしめ鯖のにぎりと鉄火巻き

         胡瓜の酢の物とお澄まし

         白玉汁粉ときな粉のシャーベット

食事が始まったのは午後9時、終わったのが午前1時。いかにもスペインらしい。

 

次女と13歳の長男がロンドンから東京に来たときのことだったが、彼は真っ先に恵比寿の書籍店に飛んで行ってONE PIECEを4冊買ってきた。

それをソファーで読み耽っているときは、声をかけても耳に入らないようだった。

このコミックは世界30カ国以上で翻訳されているので、当然彼は英文のものはロンドンでも手に入るのだろうが、原書で読むのは格別なのだろう。

 

そういえば以前、イベリア航空の機内でKafka en la orilla(海辺のカフカ)を読んでいた隣の女性が、僕が村上春樹を原書で読めるのを羨ましがっていた。

 

彼は幼稚園と小学校はロンドンの日本人学校に通っていて、今はパブリックスクールに通っているが、学校の方が気を利かせて日本語も忘れないようにと日本語の先生を探してくれたそうだ。

きっとイギリスの子供たちも、彼がONE PIECEを原書で読めるのを羨ましいと思っているに違いない。

 

僕はYou Tubeで見聞きするだけだが、初音ミクと云う興味のあるソフトを若い日本人グループが生み出した。

世界中の人が誰でも作詞家に、作曲家に、振り付け師になり得るのだと思うと、このソフトの広がりの無限の可能性に驚いてしまう。

 

バーチャルシンガーの合成音声や動きは益々洗練され高度化してゆくだろうから、世界に新たな芸術分野を生み出すのだろうと思う。

 

一般的に、このような領域をサブカルチャーなどと決め付けるのを聞くと、僕はそれは違うよ、と思う。

カルチャーにはメインもサブもない。多くの人の心に浸み込み、耕し、実りをもたらすものがカルチャーなのだから。

 

いま日本の政財界のリーダーで世界を魅了する人物は殆んど見当たらないが、文学や食文化やコミックやバーチャルの分野では、有名無名を問わず世界を魅了する人材を輩出している。

まだ、まばらな灯のように点灯しているだけだが、何時の日にか灯火が結びついて輝かしい光源になるだろう、と願う。

 

今の日本で、自由な発想力のある人間が組織の管理下で自由な精神を消耗する人間になりたがるだろうか。

自由な精神が働かないところに新たな発想(異端というべきか)は育たない。

これが今の日本の停滞に繋がっているのだと思う。

 

組織のトップが《視点を変えろ!発想を転換せよ!》などと檄を飛ばすのは無意味なのだ。

問題は個人の資質ではなく、社会構造や企業構造にあるのだから。

 

日本は優れた生産技術で欧米に追いつき追い越してきたが、今は追われる立場になって、ある面では追い越されている。

このようなときに、従来の発想の延長で生産技術の再構築を叫んでも無理だと思う。生産技術で遅れたのではなく、発想で遅れをとったからだ。

 

追う者の強みは日本が経験済みのことで、追う者の強大なエネルギーを阻むことは不可能だから、新たな社会構造や産業構造を目指さない限り、日本の将来の展望は開けないだろう。

 

一致団結して突き進んだ《和を以って尊しとなす》の強味は、時代の早い流れの中で、決断の遅さと独創力の欠如の弱味に転化してしまった。

 

今まで日本は不足を満たそうと新製品を次々と開発してきたが、不足は充足されて旧い頭は機能しなくなっている。

今は充足された時代への満腹感が新製品を打ち出す原動力になるのだろう。

iPodiPhoneiPadはまさにその産物だと思うし、新しい世代の頭に期待するほかはない。

 

ソフト事業に携わる人たちの活躍を見ていると、僕はいまの日本は底を打って上昇への変曲点にあるのではないかと思っている。

 

時間はかかるだろうが、日本は発想をソフトの観念に比重を移して、その発想を袋小路に入った既存の産業に吹き込まない限り発展はないと思う。

 

日本を取り巻く潮目が変わったのだとつくづく思う。

 

 

 

 

Lauburu | スペインで | 15:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

スペインのショッツル?

 

スペインの古代史を読んでいたら、イベリア半島がローマ帝国の属領だった時代にはガルーム(garum:魚醤)なるものがローマへの重要な輸出品であったという。

僕はショッツル、ナンプラー、ニョクマムのような魚醤は、アジアの食品だとばかり思っていた。

 

ガルームは古代ローマでは上流階級だけが使えたもので、当時は一種の媚薬と考えられて珍重されたと云う。葡萄酒や酢やオリーブ油と混ぜて料理の味付けに使っていた。

 

今のスペインには魚醤は残っておらず、地中海沿岸都市のアリカンテの西50キロにあるアドラの沿岸で見つかった古代の2隻の沈没船に積まれていた壺からガルームの正体が分かったという。

輸出品の主たるものは高級品のサバのガルーム、マグロのガルームだったらしい(小魚のガルームと、どのような味の違いがあるのだろうか)。

 

ガルームの製法は、容器に色々な魚介類の内臓やウツボ、サバ、マグロ、コウイカ、イカ、カキ、アサリ、エビ、アナゴなどを入れたり、また雑魚、アンチョビー、イワシ、アジなどの小さな魚を入れたりして大量の塩をまぶして掻きまわしながら、魚が持つジアスターゼで自己発酵させ、天日で濃縮してから濾過したものがガルームだという。

 

小魚を塩漬けするアジア系の魚醤と少し違うのは、大型の魚も漬けこんだものもあった。

 

それにしてもナンプラーやショッツルが媚薬だなどとは聞いたこともないので、古代ローマ人の心性の一端を垣間見たようで面白い。

 

スペインの魚屋の店頭を見ると、魚扱いの丁寧さは日本と比肩できる数少ない国の一つだと云うことが分かる。魚好きだし種類も豊富だ。

イタリアでは魚醤はシチリアで細々と生産されているようだが、なぜスペインから魚醤は消えてしまったのか。

魚醤はローマ帝国の食文化であってもイベロ人の食文化ではなかったのだろうか。

 

食欲の湧かない獰猛な外観のウツボはウナギの仲間なので味は悪くないらしく、日本では西日本の一部で食されているが、いまスペインでもカナリア諸島で食されることもあるらしい。

古代にガルームの原料として使われたのも無難な選択だったのだろう。

 

現在ヨーロッパで魚醤が食べられていると云う話はあまり聞いたことがない。

 

ところが偶然、ウォッカ、トマトジュース、ウスターソース、タバスコ、ペッパー、塩で作るカクテルのブラッディーメアリーを飲みたくなって、何気なくイギリスのウスターソースLee and Perrinsの小瓶を眺めていたらfish sauce(魚醤)が入っているのに気が付いた。

 

そう云えばイギリスはインドを植民地にしていたので、アジアの食文化が入り込んだのかも知れない。

 

 

 

 

 

Lauburu | スペインで | 11:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

街の顔〜2−2

 

広尾商店街のど真ん中には祥雲禅寺の山門があって、ここをくぐると何か周囲と異なった雰囲気が伝わってくる。

再開発ビルと古い家屋が入り交じる雑然とした広尾商店街を離れて、昔の境内のなかに民家も存在する雰囲気は、なにか突然に京都の寺町にでも迷い込んだような気がする。

 

この禅寺は今から350年前に麻布台から広尾に移り、諸大名が檀家になって隆盛を極めて渋谷から麻布にかけて広尾はただ一つ人家が十数件あったところだったという。

 

この寺には黒田長政の墓や、歌舞伎の名狂言、与話情浮名横櫛をもとにした春日八郎の『お富さん』で有名になった《玄冶店(げんやだな)》の岡本玄冶の墓もある。

 

祥雲寺山門を出て商店街の中を地下鉄の広尾駅の方に向かうと、天現寺橋から霞町(西麻布)を結ぶ《外苑西通り(通称:地中海通り)》に出る。

今は、この通りの両側にはビルが並んでいるが、昔は敗戦後のドサクサにまぎれて私有地を不法占拠した廃品回収業者が廃木材と焼けトタンで作ったバラックが通りに沿って並び、寒い冬には古タイヤを燃やして暖をとるので空は黒煙に覆われていた。

僕らはこの通りを《地中海通り》とは似ても似つかぬ《バタ屋通り》と呼び、学校の行き帰りにこの冴えない道を往き来していた。

 

さて天現寺橋から目黒の方に外苑西通りを辿って行くと、白金にカフェやショップの並ぶ通称プラチナ通りに出る。そして此処に出没する人たちを《シロカネーゼ》と云うらしい。

 

この通りの上手に向かって左側には、広い敷地の東京大学医科学研究所があるが昔は国立伝染病研究所と云った。

この中には小学生なら野球が出来る程度の中庭があって使わせてもらったが、研究所のこととて声を出してはいけなかったので少しも楽しくなくて、ここでの野球の試合はいつの間にか立ち消えてしまった。

 

当時、僕らは伝染病研究所を《伝研》と呼び、その前を通る道路、今の《プラチナ通り》を、これもまた似ても似つかぬ《伝研通り》と呼んでいた。

 

しかし、もう今は昔の痕跡はどこにもない。

 

東京は成長し機に応じて脱皮を繰り返す生物のように変化してきたし、それが変化のスリルと発展をもたらしてきたのだから、それなりの意味があった。

 

しかし成長が鈍り脱皮するゆとりもなくなったとしたら、歴史を捨て去り、好き放題のデザインで建てられた脈絡のない建物群の街を見て僕は何を感じるのだろう。

 

丁度、サン・セバスティアンの市街とは水と油の、ガラス張りの近代的な音楽堂を見たときの違和感のようなものだろうか。

 

 


Lauburu | スペインで | 14:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

街の顔〜2−1

 

現実でありながらお伽噺の世界を思わせるジオラマのような、長い歴史の蓄積を持つヨーロッパの街と、転変の激しい東京を重ね合わせている。

 

敗戦後の社会が落ち着き始めた小学生の頃は、身の回りの街は全て広大な遊び場だった。

家のある高輪北町から、高い頑丈な石垣の上に立つ豪邸に挟まれた桂坂を登りきると高輪台小学校があって、ここの友だちと一緒に北に向かい明治学院の脇を通って日吉坂を登り詰めると八芳園に出る。

 

ここを左に折れて都電5番線の軌道に沿って目黒駅のほうに歩いてゆくと白金台の自然園があって、トンボ釣りやカラスウリの実を採って遊ぶ。

さらに北東に向って天現寺橋から広尾橋に出てから有栖川公園の池でアメリカザリガニを釣ったものだった。

 

思えば、あの当時の小学生の行動範囲は今とは比べ物にならいほど広かった。

 

ガス工事人がガス管を積んだ大八車を引き、たまに車が通ると排気ガスの臭いに感動する。路面には荷車を引く馬の、枯れ草を丸めたような糞がポロポロと落ちているというような、道路が安全な時代だったからだろう。(僕が1956年に自動車運転免許を取ったとき、未だ交通法規には《車馬は…》と云うように車と馬が併記されていた)

 

高輪は高松宮家、北白川宮家、竹田宮家の邸宅があり、満州太郎こと山下太郎氏の豪邸やヴォーリズが設計したスペイン・コロニアル風の朝吹邸もある優雅な街だった。

一方で、今となっては信じ難いのだが70年近く前には広尾には未だ茅葺屋根の家も散見され、祥雲禅寺の近くに七星舎という酪農家があって牛糞の臭いも漂っていた。そして近所の人たちは搾りたての牛乳を買いに行っていた。

 

今でこそ高輪は昔の光彩を失い、恵比寿や広尾や白金台は旬の場所と云われ再開発が盛んだが、350年前に描かれた歌川広重の広尾ふる川(渋谷川)を見るとのどかなもので、鶯が谷渡りしていたそうだ。

 

だが、僕が子供の頃には、広尾ふる川の両岸は準工業地区で金属切削加工の町工場が並んでいて、そこからドブ川に落ちた金屑を、冬の寒空の下でも河太郎(がたろ)と呼ばれるクズ鉄回収業者が大きなザルですくい集めていた。

ヨーロッパでは300年経っても変わらない街が多いのに、この様変わりは凄い。

 

【歌川広重の《広尾ふる川》】


Lauburu | スペインで | 13:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

ボケの話し

日経新聞の電子版によると、山岡某という閣僚が《今年、ユーロは破綻するのではないかと思っている。そうなると中国のバブル(経済)も破裂する。金融・経済の大津波がやってくる》と云ったそうだ。

 

このような世界的な経済の混乱を避けるために、経済大国の日本は何をすべきかを模索するのが政治家の仕事ということが頭にないらしい。

 

ユーロの原点は第一次世界大戦の後に、青山光子を母に持つリヒヤルド・クーデンホーフがヨーロッパ連合の構想を提案したのにはじまる。

そしてスぺインの哲学者オルテガもヨーロッパ合州国(Estados Unidos de Europa)の概念を打ち出した。

その後、不幸にして勃発した第二次世界大戦の悲惨な経験から1946年にチャーチルもまたヨーロッパ合州国(United States of Europe)の考えを世界に訴えた。

 

具体的な動きとしては先ず《ヨーロッパ経済共同体》から始まり、《ヨーロッパ共同体》を経て《共通通貨ユーロ》が導入された。

 

いまユーロはもがき苦しんでいるが、僕はユーロは長い人類の闘争の歴史が生んだ偉大な実験であり、世界中の国が支えるべき理想であると思っている。

 

長い間の仇敵であったドイツとフランスが手を組んでユーロを支えようとしているのは、強い信念に基ずくものでユーロの破綻などはあり得ないだろう。

メルケルもサルコジも山岡某とは次元の違う理念と信念を持って動いている。

 

汚れ仕事は沖縄県民とアメリカ軍に押しつけて経済発展してきたが、釈尊の捨身飼虎の覚悟もないインチキ平和主義を、呪文のように唱えているうちに頭がボケ切ってしまったらしい。

あなた任せで、自分の身は自分で守るという当たり前のことを真剣に考えず、自分の殻に閉じこもっているうちにガラパゴス化して世界から遊離してしまった。

 

50年前には35億だった世界の人口は去年70億と倍になった。

ゴキブリとネズミが人間の増殖ぶりを懼れて緊急対策会議をしているのではないかと思うほどだ。

 

この調子で人口の増殖が続けば、50年後には水、食料、エネルギーは完全に不足し、腕力ずくの争奪戦が始まるのは目に見えている。

13億の人口を抱える中国の軍備増強はこれを前提にしているのは明らかだ。

 

それでもなお自己陶酔のインチキ平和主義を歌いつづけているのだろうか。確固たる国防意識がない国に外交は存立しえないのはマキアベリを読むまでもない。

 

Lauburu | スペインで | 15:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | ログピに投稿する |

街の顔〜1

久しぶりに、8年前まで住んでいたマドリードの地下鉄コロンビア駅の地上に出た時、街の雰囲気は以前のままだな、という気がした。


しかし、僕がいつも行っていた新鮮な海産物が食べられる気さくなバル・レストラン《マルベージャ》で美味しいエビの鉄板焼きを食べようと探すが見当たらない。
残念だな、と思いながら歩いていると数十メートル北に行ったところにあった。

見違えるような洒落たファサードの店になって。

この地区を南北に走るベルガラ大通りを散策していたら、徐々に何か以前とは違うと感じ始めた。

何が違うのだろうか。

建物の並びが作り出す雰囲気は以前と変わらないが、その建物の地上階で営業する店舗の業態が変わって来ている。美味しかったチュロスの店も消えていた。

以前、この地区は都心と住宅地の境界で、店舗も買い廻り品を扱う生活感があるものが多かった。
しかし、今は宝飾店やブティックのような都心型の店舗に置きかわっている。

マドリードの都心部も外に外にと広がっているからだろう。

街の骨格は見かけ上は変わっていなくても、商店の業態は時代に応じて変わってゆく。
鳥の目で街を見ると昔と変わらないように見えても、地上の虫の目から見ると様子は変っている。

 

ヨーロッパの古い街は建て替えが規制されているので大枠は変わりようがない。そこでマドリードも、人口増はモストレスのような地下鉄の均一料金地区の外側の南の地区で吸収することになる。

 

時代に合わせて利便性を求めてガラガラと変わって行く東京の住宅に住みなれると、ヨーロッパの旧市街の住宅は不便だとも思う。

 

旅行者の郷愁を掻き立てる雰囲気があっても住むとなれば話は別だ。

 

東京の都心は建物も一気に変わってしまうので、以前は一体何だったかを思い出すのも苦労するほどだ。

東京は常に変化するスリリングで面白い街だが、商業地区の低層木造家屋が土地の高度利用を求めて建て替えの対称になるのは宿命なのだろうが、昔からの日本の生活文化の匂いが失われてゆくのは寂しい気もする。

 

しかし『君は利便性を捨てても歴史を守るために、数世紀以上の歴史を背負うヨーロッパのような住宅に住みたいと思うか』と訊かれたら、『yes』と答えるだろうか。

ガス管を引くスペースのない昔の中層住宅では、未だに人間が担いで運べる小さなプロパンボンベを使っているところもある。

停電になるとトイレの水も流せない自動化追求の極致の日本とは大違いだ。

 

僕のイルンの古いマンションでは僕の家も含めて2割位しか都市ガスは引かれていないし、後付けのエレベーターのために削られた階段の狭さはひどいものだ。

 

利便性は日本で求め、郷愁はヨーロッパの旧市街で求めるという自分の身勝手だった発想に、今では苦笑している。

 

アンダルシアの家の白い壁が欠けたところを見ると、焼き尽くす夏の太陽を避けるために石灰を塗り重ねた苦労の年輪が見える。

家の中を見せてもらうと、はたして僕は此処に住み続けられるか?『no』だ。

 

フランコが1939年に政権についたとき、外貨獲得の柱に観光業を据えて《Spain is different》のコピーを世界にばらまいて成功を収めた。

僕も1975年にスペインを訪れたとき、僕の頭の中の《Different》の文字は大きくて濃かった。

だが今、《Different》は小さくて淡いし、あと10年後には消えてなくなるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

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