恵比寿にて〜2015/11/8

ロンドンからの孫娘のメールは《予約したチケットをローソンのLoppiで受け取って欲しいという》。《Loppiって何だ?》。だが購入するタイムリミットは近づいている。
なにやら分からんがやってみよう。店の営業妨害にならぬよう必要なデータをメモして早暁のウオーキングに出かけて客の少ないLoppi君と向き合った。
Loppiから打ち出されたテープをレジに持って行くと店員が奥の機械でチケットを打ち出して間違いがないかチェックして欲しいという。内容を全く知らない僕は《スガシオってバドミントン?》《お客さん、バドミントンはオグシオですよ。スガシカオは人気のシンガーソングライターなのです》。
トンチンカンなやりとりの末にチケットを引き取って後ろを向いたらレジ待ちの若い女性が下を向いて笑いをかみ殺していた。
僕は痛感した。《76歳のオレは何時までこのような変革について行けるのだろうか》
 
 
Lauburu | ヨーロッパで | 14:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

若葉の時期に

 

5月の下旬になって、やっと僕のピソの窓の前の並木の若葉が生え揃ってきた。そうだ日本の暦ではとうに立夏を過ぎている。

この青葉若葉の並木をぼんやりと眺めているうちに、以前、初夏にVWゴルフで走った緑に萌えるイングランドのコッツウォルズの1週間を思い出した。

一体イギリス人は、どの位のエネルギーと資金を国土の緑化保全や自然の景観の保護に注ぎこんでいるのかとつくづく感じいったのだった。

大規模なナショナルトラストを初めとして、何処にでもある庭園も宿泊した民宿(B.B)の庭も見事に整備されていて草花の配置も素晴らしい。
まるで庭の手入れに国民が一生を捧げてでもいるようだ。これが彼ら誇りなのだろうし、人生の重要な部分を占めているのだろう。この気候の厳しい国での緑化には並外れた信念と努力が必要なのは疑いの余地がない。

使い捨て文化に浸りきったわが身には、古きものを大切にし、人間を包み込む自然を大切に慈しむ精神には頭が下がるばかりだ。


《コッツウォルズの現実離れした風景》




僕はスペインで1キロ150円の米を買っているが東京では550円だ。この差額の400円を、僕は瑞穂なる大和の国の緑を守っている農業従事者が得るべき当然の報酬だと思っている。イギリスの緑化保全の精神は、『それを守るためには国民は税金を始めとして応分の負担すべきだ』ということを国民が自覚していることだろう。
『安ければ良い』という目先の経済原則を持ち出す現代の日本は国土の緑化と保全は不可能だ。WTOの圧力で米の関税撤廃したときに米作農家が崩壊するなら、それは日本人の教養の問題なのだ。やせ我慢しても必要なら高いものも買わねばならない時もある。

食料自給率が40パーセントを切った国が、水田の荒廃を見ながら古代からの米文化を捨てて、100パーセント輸入の小麦に頼る食品に趣向を移しすぎて国産の米が余らせるというのは、あまりにも変ではないだろうか。安い外国木材に殺到して林業を衰退させて山林を荒廃させてしまったツケは大きい。
国全体が安物を求めた結果生産施設は外国に移り、国内の就業機会を縮小させる悪循環などは『天に向かって唾する』ものだと思っていた。


《安物買いの銭失い》の傷は余りにも深い。景気を振興させる国民の購買力は再起不能なまでに萎えてしまった。



 

Lauburu | ヨーロッパで | 16:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

パレルモへ

 

僕は若い頃から馴染んでいる西欧的(キリスト教的)価値観には親しみを感じ、イスラム的価値観には違和感を覚えていた。その反面、金銀ギラギラこけおどしのカトリック教会には嘘っぽさを感じ、幾何学模様とデザイン化されたアラビア文字と馬蹄形のアーチで構成される簡素なモスクには本当らしさを感じていた。


僕は信心深いわけではないが、このご都合主義的感情は僕を何となく居心地悪くして来たのだが、スペインに来てレコンキスタ以降にキリスト教文化がイスラム文化を取り込んだムデハル様式を見たときに、この妙な感情が落ち着いたのだった。

そして同じようにイスラムの支配を経験したシシリアは、キリスト教文化とイスラム文化はどのように融合して残っているのかを見てみたいと永年思っていた。

 

日本は1つの基盤の上に、自ら醸成した文化や外部から吸収し同化した文化を積み重ねきた。しかしシシリアは日本とは全く異なる状況下にあった。シシリアの支配者はフェニキア、ギリシャ、カルタゴ、ローマ帝国、東ゴート、ビザンチン帝国、イスラム王朝、ノルマン王朝、神聖ローマ帝国、フランス伯領、アラゴン・バルセロナ王国と目まぐるしく移り変わる。そしてシシリアでは夫々の民族が彼らの基盤の上に独自の文化を築き、複数の文化基盤が並存したり融合したりして来た。

 

僕が興味のあるイスラム王朝の時代は、シシリアの首都はパレルモに置かれイスラム文化が根付いた。当時のパレルモの人口は30万、キリスト教徒やユダヤ教徒も共存して、中世ヨーロッパでは人口50万を擁したスペインのコルドバに匹敵する繁栄を極めた(現在ではパレルモ70万、コルドバ30万と逆転している)。

その後ノルマンジーのノルマン人が11世紀初頭にパレルモからシチリア全島を支配する。このシシリア・ノルマン王国の首都もパレルモに置かれ、ノルマン人はロマネスク様式にビザンチン様式やイスラム様式を取り込んだ独自の都市文化を形成した。


イスラム支配という、西欧では特筆すべき時期があったという大筋では似ているようで、似ていないところも多い歴史的運命を辿ったスペインとシシリアの、現代でのイスラム文化の位置づけの違いは何かを見てみたい。


また神聖ローマ帝国皇帝、『奇跡の人(僕が勝手に呼んでいるのが)』フリードリッヒ2世(フェデリコ2世)を生んだシシリアとはどのような所なのか…今回の旅はこの要素も強いのだが。

 

3月末に4泊の予定でサン・セバスティアンからマドリード、ローマを経由して、実飛行時間5時間弱で夜半にパレルモ空港に到着。


イルンに住むイタリア女性が、スリとひったくりが日常的な南イタリアの治安の悪さから単身の旅行を危惧していると聞いたが好奇心に負けて来てしまった。バスク地方とは違うのだと肝に銘じてパレルモ空港では神経はかなり緊張していた。


《何とかの歩き方》などを抱えてキョロキョロするのは《我輩はカモである》とデモるようなものなので、必要なところだけカラーコピーしてそっとポケットにしまってある。荷物は動き易いようにショルダーバッグが一つだけ。

 

空港から街の中心まではバスがあって5.6ユーロだが、夜中にバス停からホテルまで見知らぬ街を歩くのもイタリア女性の《貴重な忠告》の手前はばかられる。

すると若いタクシーの運転手が寄ってきたが、ヨーロッパの大都市以外ではタクシーはメーターがないケースが多いので(昔は東京でも市内はどこでも1円で行く《円タク》があったそうだ)料金を訊くと、ホテルまで45ユーロだという。30キロの距離にしては高すぎないか。

彼と押し問答していると運転手の頭株と思われる運転手が来てこっちに来いという。すると空港建物の壁にタクシー料金表がデカデカと貼ってある。都心まで45ユーロ。さらにこっちに来いというのでタクシー溜まりに行くと、どのタクシーのボディーにも件の料金表の縮小版が貼ってある。都心まで45ユーロ。


タクシーに乗ったのが正解だった。

運転手にここがホテルだよと云われてもキョトン、どれ?ヨーロッパの旧市街ではビルは夜の11時過ぎともなれば部厚い大木戸を閉めてしまうので、ホテルを識別するのが難しい。運転手がレセプションへのインターフォンを教えてくれたので開錠してもらう。1階はがらんとして何もない、どうする?そこでレセプションは5階だよと運転手に教わる。


もしバスで深夜のパレルモ中央駅まで来てホテルを探し始めたら、夜中に頭が混乱してパニックになったかも知れない。お金を使うべき状況をよく認識したのだった。


翌朝、まずホテルの前のメインストリートのローマ通りに出ると、車とバスとオートバイがブンブン通り過ぎる。横断歩道は多いのだか信号はない。歩行者など知ったことではない車やオートバイが多い。


ロンドンやマドリードから東京に帰ると、ゼブラクロッシングの歩行者に対するドライバーの行儀の悪さに腹が立つが、そんなレベルではない。横断歩道に足を踏み入れても2割位のドライバーは減速しない。《奴が譲歩するか、俺が譲歩するかどっちかだ》と情け容赦なく車やオートバイが突っ込んで来て、急停車するかハンドル操作で走り去るかだ。

先ずは身を守るために、道路をじっと眺めて《道路の歩き方》を研究する。歩行者の行動を見て地元の人が渡り始めたら便乗するのが安全だ、が結論だった。


《観光馬車も我が物顔で闊歩する》

 

《道路の歩き方》の学習が終わってから旧市街を散策して驚いたのは、ビザンチン様式、ロマネスク様式、ゴシック様式、イスラム様式、バロック様式が融合した多くの建築物が渾然一体となって形作る混沌とした町並みの、脳の焦点を定めようがない取りとめのなさだった。そして取り留めのなさが僕の歴史の知識を試すのだ。

 

《ビザンチン様式やゴシック様式が混在する旧市街》

人の言葉を借りれば《美は乱調にあり》か。ロマネスク様式を土台にしてビザンチン様式、イスラム様式を取り込んだ、一言で定義のしようがない《ゴチャ混ぜ文化》をシシリア・ノルマン文化と云うのだろうか。どうしてもノルマン様式の心棒が何かが見えない。


そしてファサードがバロック様式のマルトラーナ教会と、素朴なロマネスク様式とイスラム様式が結合したサン・カタルド教会が共存するのは興味深い。



内部がビザンチン様式のマルトラーナ教会は地元の人たちの信仰の場として機能している。



しかし、簡素なイスラム様式のサン・カタルド教会は入館料1.5ユーロの観光資源に止まっている。僕の他に中に居る人はなかった。




僕はこれらの渾然一体を紐解き分別し解説する知識は持ち合わせていないし、人が撮った観光名所の写真ほど退屈なものはないので多くの写真は控えよう。

それにしても、ビザンチン様式を取り込んだノルマン様式の金色キラキラのモザイク画の氾濫は凄いという他はない。


《パラティーナ礼拝堂の金色キラキラのモザイク画》


教会とはあらゆる手段を使って善男善女をたぶらかす仕掛けを編み出すようだ。

何しろ荒唐無稽な(失礼!)《無原罪のお宿り》を民草に信じさせなければならないのだから。

 

また、云えそうなことは、この建築様式の渾然一体は、歴代の支配者達の異文化を清算せずに自分達の文化も含めて止揚する複雑な心理的手続きの多彩な産物に違いないということだった。そのなかで、パレルモは巷間云われる《美しいイスラムの都市》という印象はない。イスラムはひっそりと余生を送っているだけだ。《いわゆる》ノルマン様式の一角で。

 

一通り旧市内を見物した後で、ノルマン・イスラム様式とスペイン・ムデハル様式を比較してみると、《ノルマン・イスラム様式》のエレミティ教会…ロマネスク様式とイスラム文化の融合の典型的な所産…と、《スペイン・ムデハル様式》のテルエルのサンタ・マリア教会…中世カスティージャ・アラゴン様式とイスラム様式の融合の典型的な所産…は同じイスラム様式を取り入れたといっても全く趣を異にする。

パレルモのロマネスク(ノルマン)・イスラム様式ではイスラム文化は既に過去のもので、スペイン・ムデハル様式の中では、イスラム文化は同化されて現代に息づいている。


《スペイン・テルエルのサンタ・マリア教会》

サンタ・マリア教会は現在市民の信仰の拠点として残り、エレミティ教会は使われて居らず閉鎖されている。もう過去の遺物だった。



 

パレルモの異文化のゴチャ混ぜの融合を見ていると、不寛容と独善の現代が真剣に学ばなければならないであろうこと、つまりここを統治した歴代の支配者達の異文化への寛容(あるいは建設的で意図的な精神的ルーズさ)が感じられる。


そしてキリスト教文明とイスラム文明の衝突をあらゆる手段を通して回避したフリードリッヒ2世の人物像が漠然と浮かんでくるのだった。

 

フリードリヒ2世が生まれた当時のシシリア島は、キリスト教文化とイスラム教文化がノルマン王朝のもとで融合して独特の文化を生み出していた。フリードリヒ2世は、ここでキリスト教徒やイスラム教徒といったさまざまな価値観を持つ人間に触れ、文化の凝集体である外国言語を複数習得した。彼の異教徒への寛容と理解の精神はこの幅広い教養に由来するのであろう。


またイスラム世界で進んでいた自然科学に興味を持ち、『ありのままに見よう』という態度は皇帝の自然科学者としての素質のほかに、金銀ギラギラ虚構の塊のカトリック教会への疑問が見て取れるのではないだろうか。


1220年にフリードリヒ2世はパレルモで、十字軍の遠征を条件にローマ法王から神聖ローマ皇帝位を認められる。当然のことローマ法王からは十字軍遠征を再三催促されたが、国際的視野の広いコスモポリタンの皇帝は乗り気ではなく、遠征の途中で兵士達の疫病などの理由で引き返したりして破門される。


やむなくフリードリヒ2世が聖地奪回をローマ法王に宣誓したときに、イスラムのスルタンは衝突回避の話し合いのための使節をシシリア島の皇帝のもとに派遣した。使節はアラビア語を自由自在に話す皇帝フリードリヒに驚き、この報告を受けたスルタンはフリードリヒ2世に書簡を送って、ここから交流が始まる。2人はお互いが共通に興味を抱く自然科学に関する話題で理解を深め合ったらしい。


しかしローマ法王からの執拗な聖地奪回の要請を拒みきれなくなったフリードリヒ2世は、最終的に武力によってではなくスルタンとの交渉によって聖地を回復することとし、この交渉には半年に近い日々を費やし、最終的にお互いが大きく譲歩することで了解点に達した。この間の議論の議事録が残されていたら、どのくらい現代で役立つことだろう。和平協定の骨子は、

1)イスラムの君主スルタンは神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ2世にエルサレムの統治権を譲る。

2)岩のドームはスルタンが管理する。

というものであった。現代では到底考えられないことが実現したのだった。

 

異文化への造詣と尊敬の念がもたらしたフリードリッヒ2世の寛容の精神は相手をも寛容にした。不寛容の現代に生きる我々はこれをどのように解釈すべきなのか。大局観に基づく妥協と譲歩をも敗北と信じ込む現代の狭量さは、何時から蔓延し始めたのか。この感情を駆り立てる自らは全く気づかぬ知性の衰退は危険だ。

 

パレルモから電車で東に1時間のところにある、海辺のギリシャ時代からの小さな町チェファルゥ(Cefalùの民宿(BB)のテラスから、紺青のティレニア海を眺めながら不寛容と独善について考えているうちに、スペインの修道士ティルソ・デ・モリーナが、自ら創出したドン・フアン・テノーリオに語らせる不思議な言葉を思い出した。


『おれは天を呼んだ。しかし天は答えなかった。天の扉はおれには閉ざされている。おれの足は地上をいく。その責任は天が負え。おれは知らない』(岩波文庫)


時は人間を少しも賢くはしなかった。いまさら不寛容などを考えても仕方があるまい。寛容とは不寛容を寛容することのようだから。


南イタリアの陽光の贈り物の滋味あふれる葡萄酒を飲んで、波の音でも聞きながら昼寝をするのが一番だと割り切ろう。


なるようになるさ:
Chè sarà sarà(ケッ サラァ サラァ)


《海を見て昼寝した民宿のテラス》

【あとで思ったこと】

スペインで大略紀元400年にローマ帝国を駆逐したゲルマン族の西ゴートは、スペインに今に残る文化(言語、芸術、地名)を何も残していない。このため実証主義的歴史観に基づけば、スペインに300年の西ゴート支配の時代はなかったとも云えるほどだ。

大略1100年にシシリアを征服したノルマンジー地方に居ついたゲルマン族のノルマン人が西ゴートに勝っていたのは、多分ロマネスク様式を基礎とした自己の文化に、人の文化を組み合わせて、シシリア・ノルマン文化を創る能力があったことだろうか。しかしシシリア・ノルマン文化とは如何なるものかを具体的に述べることは僕には不可能だが。

 

スペインの大半を800年にわたって支配し、今も膨大なアラビア語起源の言葉をスペインに残すイスラム文化と比べれば、僅か150年シシリア島という隔離された空間を支配し、今は建築様式に痕跡を残しているだけのイスラム文化は、昔の異国趣味の遺骸でしかないようだ。スペインではイスラム文化が同化されて生き続けている。現代におけるイスラムの位置づけが全く違う。これが分かって気分が落ちついただけでもパレルモに来た価値があったような気がする。

 

パレルモの建物の様式は混沌とはしていても、東京のようにデザイナーが好き勝手した建物の支離滅裂な集合体ではない。歴史の繋がりを常に考えさせる街だった。

ヨーロッパのように、様式は異なっても歴史的に何か連続性のある世界とは異なる日本で、若き日の丹下健三氏が日本様式西欧建築の創造に苦悩したことを実感する。

 

僕は今まで北イタリアしか行ったことがなかったが、大都市や観光地ではぼんやりしていれば二重料金やつり銭の誤魔化しが日常的で、これは風土病だと感じて来た。しかし南のパレルモは云われたほどには酷くなかった、『否』、むしろ北よりは朴訥と云うべきか。北イタリア人は南を蔑視して悪しざまに云うと聞いてはいたが、帰ってから確認したら、件の女性に聞くと南には行ったことはないらしい。

【蛇足】

《裏町の風景》


《市場では生シラスを売っていた。オリーブ油とニンニクで炒めるそうだ》


《調理道具店が軒を連ねるパレルモの合羽橋》


《ティレニア海を見ながら朝日を浴びて朝食。最高の贅沢》

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