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バルの楽しみ、食べ物雑感

 

スペインのレストランは素晴らしい。その料理の美味しさに増して、プロとしてのホスピタリティーが素晴らしい。

だがスペインでの味覚の究極の楽しみは、何と云ってもバルに入ることであろう。

店ごとに親父が得意技を持っているので、好みのものを選びながらのバルのハシゴこそ美味探求の極みだと思う。

朝早6時頃から午前2時ころまで、カフェあり、ピンチョスあり、ラシオン(一皿料理)あり、もちろんビーノとカーニャ(生ビール)は当然の話。不思議に思うのはバルの親父は、何時仕入れをして何時ピンチョスを仕込むのだろうと思うほど一日中カウンターの中で働いている。バルなくしてスペイン社会は回らない。

とくに客で一杯になるのは午後2時前と8時前で、この時間帯は食事前のウォームアップだ。僕がスペインの食習慣に慣れないうちはウォームアップをし過ぎて、折角の昼食や夕食をギブアップしたことがあったが、最近では習慣も身について中央公園を囲むバルのテラスでゆっくりとアペリチフなどを摂るようになった。

公園では年配者がベンチで歓談し、日よけの下では、家族連れがカフェやカーニャを挟んでお喋りする。町全体が醸し出すこの雰囲気が僕には羨ましい。東京の我が家の近くの、プラチナ通りの取って付けたようなカフェのテラスとは全く違う雰囲気がある。



では僕の目に付いたバルを3つ紹介しよう。

1):イルンのサッカークラブの《Real Uniòn》を店名にしたもので、ここのピンチョスのフォアグラと小イカは美味。

Real Uniònは今季、1915年の創設以来の悲願だった3部から2部に昇格したので、バルの親父は有頂天だろう(3部と2部では幕下と関取くらいの格の違いがあり、やっとプロと呼べるようになった)。余談だが、クラブの本拠地の5000人収容するガル・サッカー場は、今まで1ヶ箇所塀に隙間があって只見が出来たのだが、2部昇格が決まったとたんにガッチリと隙間は塞がれてしまった。プロの試合は只では見せないという誇り?



2):《La Canasta》で、ここはイワシやニシンの酢漬けやトルティージャが売りだ。



3):メインストリートのコロン通りに面した《Cafeterìa Colòn》でピンチョスの多彩さが楽しい。だが僕の周辺では何でも屋だと評価しない人もいる。確かに店頭のメニューの写真は駅前食堂の雰囲気だ。




最近日本ではイタリア料理店が飽和状態になって、雨後の筍のようにスペイン料理店が出来てはいるが、ここでは日本では案外知られていない米料理を紹介しよう。

日本ではパエージャが一般的で良く知られているが、僕が好きな米料理はむしろパエージャよりもエビやカニの頭や殻からとった濃厚なスープで煮込むスープご飯(arroz caldoso)だ。これは新鮮な魚介類が手に入る北の地方、ガリシアの名物料理。

オリーブ油でニンニク、玉ねぎを炒めてから米を加えてさらに炒め、魚介類からとったスープでジックリと煮込むのが基本で、イタリアのリゾットと日本の雑炊の中間のようなもので、《北スペイン風 海の幸のオジヤ》と言うべきものかも知れない。日本の人でパエージャを好まない人も、このスープご飯に満足する人が多い。

近年、スペインでもアサリや、車えび、アンコウなどは高価なものになってきているが、価格には換えがたい美味なものである。


《アサリのスープご飯》



《アンコウ、イカ、車えびのスープご飯》






スーパーの野菜売り場を覗いてみようか。オレンジ、桃、イチゴ、梨、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、キャベツ…など、大きさも熟し方も違うものが、生産流通段階で傷ついたものも含めて渾然一体と積んである。余計な手間をかけずに選別は消費者に任せる。日本とは生産、流通、販売コストが大違いだろうと思う。日本では消費者の見掛け指向が大きく価格に跳ね返っているようだ。

日本と比べて見かけが悪いスペインの野菜や果物は美味しくないか?反対なのだ。生野菜が好きでない僕は、根菜類(ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ)を煮込んだスープを、東京でもイルンでも朝の定番として食べているが、スペインの味に馴染んで東京に帰って同じものを作ると味がしない。

子供が食べ易い癖のないニンジン、臭いのないニンニクなど作ってどうするのだろう。個性ある人間を嫌う風潮が果物や野菜にまで及んだのだろうか?

 

日本でスペインレストランを開くつもりでサン・セバスティアンに修行にきた男性が、たとえばトルティージャ(スペイン風ジャガイモたっぷりのオムレツ)は日本のジャガイモでは作れない、などなどで将来サン・セバスティアンに店を開くことにしたと云う。---日本では、こだわりのレストランに特別に栽培した野菜を納める篤農家もあるが、一般のレストランではとても採算が合わないらしい。

 

以前長女と日本では牛筋がポピュラーだが、肉類を無駄なく食べるスペインでは見たことがないのは不思議だと云ったら、こちらでは捨ててしまうのだという。その話を覚えていた義理の母のA氏が肉屋に行ったときに牛筋はないかと訊いたら、肉屋は『捨てようと思っていたものがあるのであげます』と云うので貰ってきたという。

だが彼女は料理の仕方が分からない。そこで親友の超グルメのJ氏に相談したら彼が料理を引き受けてくれた。


例のグルメクラブにJ氏A氏の連れ合いのP氏、そして僕が集まってJ氏が家で下準備してきたものを見て驚いた。日本では牛筋に肉が付いたものを売っているが、スペインの筋はまさに筋だけ、捨ててしまうことに納得。圧力鍋で1時間煮たものは白味がかった透明感のあるものでコラーゲンの塊。こちらではそのものズバリ「アキレス腱」というそうだ。これだけではコクがないので、別に牛の腿肉でシチューを作って細かく切ったアキレス腱を混ぜ込む。醤油は使わないがまさに日本の筋煮こみの雰囲気。


J氏が云うにはスペインの中央部のカスティージャでは、アキレス腱を食べるそうで、それを覚えていたらしい。

『ところで日本ではどのようにして食べるの?』

『牛筋を1時間くらい煮込んでから、ゴボウ(説明するのに四苦八苦)、コンニャク(これも四苦八苦)を入れて醤油、酒、砂糖、味醂(これも四苦八苦)で味をつける。次にアキレス腱が手に入ったら僕が作るよ。日本から乾燥ゴボウとコンニャクを持ってくるから』

 

そこで例によって男3人でビーノを楽しむ。スペインの固有種の葡萄、テンプラニージョのナバラ物だ。

『今年はオンゴ(マツタケ、ポルチーニに相当する貴重なキノコで、味わえるのはこの地域の人たちだけ)は取れるかしら?3年前の豊作以来、全く採れていないよね』

『今年もダメだよ。春から夏にかけての温度、湿度、降雨量、日照時間がうまくバランスしないとオンゴは顔を出さないんだ。中央部のソリア近辺の松林には生えるかも知れないが味がしないキノコだよ。やっぱりバスクやナバラのピレネーの麓の樫の林で採れるものでないとね』

というわけで僕の秋の味覚の楽しみの一つが今年も消えてしまった。

 

Lauburu | スペインで | 18:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

僕がバンパイヤについて知っていること(2008年度ナダル賞作品)

僕が英語=国際語・世界語という固定観念から抜け出せてから約6年、最近はスペイン語で書かれた気になる本は積極的に読むことにしている。


そこで2008年のナダル文学賞をとったフランシスコ・カサベージャの《僕がバンパイヤについて知っていること:Lo que sè de los vampiros》を読んでみた。

2007年の受賞作品、奇怪な小説の《蜃気楼のマーケット》を遥かに凌駕する、奇妙な壮大さを持った人間の矜持と生への執念と狂気の作品とでも云うべきだろうか。散りばめられたラテン語、フランス語、イタリア語、ドイツ語のフレーズに悩まされ、机には各言語の辞書が並ぶ…

スペインの人は誰でもこのような多彩な言語を自由に読みこなせるのだろうか?衒学趣味が強すぎないだろうか?


それを割り引いても、ハードカバー600ページの長編を僕に読ませたのは、人間の矜持とは何かを訴えるものがあったからだろうと思う。所詮は秘書止まりのC調な人間が(この表現は古いか?)政界や企業のリーダーになれる日本には矜持など存在し得ないから。


この本は日本文学では現れることのない発想。鳥もちに絡まれたような粘着力。理性と狂気と幻覚と醜悪の化合物。作家はこれをバンパイヤに見立てているようだ。

 

18世紀に起こったスペインでのイエズス会士追放令で数奇な運命をたどった若い見習い修道士の苦難の物語。

登場人物は全て生きるための執念と狂気の雰囲気を持つ。読み進むうちにフィクションを通り越して、作者に精神的あるいは肉体的な普通でない何かを感じて不安を感じることもしばしば。人間が持つどろどろしたものを、あからさまに露呈するのを読む息苦しさ。


そして作者は受賞した年の12月に45歳で心筋梗塞のため急逝した。僕の漠然とした懸念が現実になったのでかなり驚いたのだった。しかし、日本人の僕とは全く異なる発想と接することが出来た偶然もまた噛みしめた。


そう云えば三島由紀夫が、読んで不快さを感じないものは小説ではないと云っていたのを思い出す。

 

作家のユニークな発想の一端を紹介するために、フィヨルドのある小公国の大公の宴に招かれた主人公の一人、自分の矜持を守るためには全てを捨てる覚悟で権力者にでも挑戦するウェルダンのセリフを拾おう:


『黄金の作り方は皆さん興味があるでしょうが、その処方は極めて単純です…』。宴会のテーブルでは舌鼓の音もグラスの音も止むが、貪欲な微笑みと期待の表情は強まる。

『紳士淑女諸氏、閣下諸侯!二度と云えませんので処方を暗記してください。さて処方は…朱色の銅…酢酸…人間の血液…。続けます、朱色の銅、酢酸、人間の血液…ああ、そうです!そしてバシリスクの遺灰も必要です!もし皆様が注意深く考えれば、宇宙の全てと同じように原理は極めて単純なものです。宇宙は水、風、火、大地…この黄金の場合は血液と灰…生と死…簡単きわまるものです』


そこで大公は『しかしバシリスクの灰はこの地方では見つけるのが難しいよ。我々の森ではバシリスクは少なくなっているのを知らないの?』と皮肉る。

ウェルダンの眼に不快感を示す妖光が走る。


ウェルダンは反論し、大公の取り巻きの胡麻スリたちはもう笑わない。

『閣下、森もまた少なくなっています、しかし木を植え街を建設するのと同じように、バシリスクも飼育することが出来ます。

閣下、雌鶏の卵を手にお取り下さい、もちろん宜しければですが。手に卵を持ち、表情は物思いに耽る雰囲気の、やんごとなき御姿は馬鹿げては見えません。その後にパンで飼育するヒキガエルに卵を抱かせて下さい。卵の殻が割れたときに、普通の雛と全く同じオスの雛鳥が現れます。これが多くの人が騙されるのです!人々は外見を見て《馬鹿馬鹿しい、あの雛と同じものだ》と云います。私は全て見てきました。

とんでもない。外見は空っぽで想像力のない人は騙まされるのです。事実、

7日後に雛鳥から蛇の尻尾が生えます…そしてあなたはバシリスクを手にするのです!』

 

…ギリシャ神話の、一睨みで人を殺すというイグアナに似たトカゲのバシリスクを、現実に当てはめるような幻覚に似た作家の想像力があらゆるところで顔を出す。

 

1757年12月5日のプロシャの王フリードリッヒ2世のロイテンでの戦闘で、王は若い将校に『お前は永遠に生きようと考えているのか』と詰問し、将校は反論は無益と分かって敵に突貫する。プロシャはスパイの偽情報で油断したオーストリア軍を伝説的な速度で殲滅した。そしてフランスとオーストリアとの勝利でプロシャは大きな国家となる。


その後プロシャの兵士の中にロイテンの戦闘で捕えられたジャン・ドービルと呼ばれる召集兵がいるが出自は不明だ。目蓋が神経的に痙攣する男だ。そして1758年にドービルはナイッセの戦闘で死ぬ。


ドービルとは誰か、顔面の奇癖に苦しみ騙し騙されて死んだゴンサリート。本名はゴンサロ・デ・ビロアージェ・デ・バサン。彼の末弟はマルティン・デ・ビロアージェ・デ・バサン。


ゴンサリートは意見の合わない父親、スペインのガリシアの領主のゴンサロ氏の頑迷さに愛想を尽かして出奔。ゴンサリートが送ってきた手紙は、8ヶ月前から彼はローマのコロンナ枢機卿に仕えていて、その甥たちの家庭教師をしていると伝えているが、実際には賭博師で生計を立てている。


またマルティンもイエズス会の見習い修道士となって家を去る。
イエズス会士たちは、ゴアであろうと、マニラであろうと、友愛と力と保護を約束する修道会の翼の下で、強く確信を持って如何なる状況にも対峙出来るであろうと考えている。


しかし全てのスペイン領土とインディアス、フィリピン諸島と近傍から、イエズス会修道士は聖職者も助任司祭も、あるいは初めての修道立願を行った一般信徒も、彼らに従うことを望む見習い修道士も追放することを命じる王令が出る。

追放されたイエズス会士たちは、来たるべきことが分からず、北スペインのフェロール港から始まる旅の日々を懼れる。


イエズス会士と一緒に出発するという見習い修道士マルティンの決意は、他人の目には勇敢なようであるが、ローマに行けば、彼の兄のゴンサロの何らかの援助あるいは指導を受けられるという可能性がマルティンを励ます。


追放先のローマのチビタベッキアの桟橋でスペイン海軍のイエズス会士輸送船の艦長は一人のローマ人に話しかける:
 『フィエラモスカさん…あなたの前に、私が会ったことがない素晴らしい素描家が居ます。そのうえ若者はラテン語、ギリシャ語、フランス語が出来て。見事な字を書きます。場合によってはゴシック風の文字まで書けます』


絵画の偽造を生業とするベンベヌート・フィエラモスカの命令で、25歳のときマルティンはマルティーノ・ダ・ビラあるいはフィリッポ・バッツアーニの偽名で人を中傷する戯画を描き始める。そして1772年に愛憎半ばするウェルダンとローマで運命的な出会いをする。


マルティンはフィエラモスカの娘のロゼーラとの色欲に落ちるが、中傷文書で身に危険が迫るとともに、マルティンをロゼーラから遠ざけたいフィエラモスカはイエズス会士糾弾文書をでっち上げて彼をローマから追い出そうとする。
彼はローマから去るに当たって同志ウェルダンと召使のドゥミトリに会いに行く。そして5年のローマ滞在の後にマルティンは、これまたローマに居辛くなったウェルダンとドゥミトリとミラノに向けて出発する。

 

マルティンがその後に行動をともにするウェルダンとは何者か。


出自は不明だが青年期にドイツでバッハと同じ環境の中でバイオリンの才能を開花させ、その後にロンドンに渡る。人道主義的な考えとバイオリンの才能、そして雄弁と大言壮語で社交界に入り込み、そこで出会った錬金術が趣味の男と親交を結び、彼の実験室で見たエメラルド色の液体に魅せられて両手で掬おうとする。錬金術用の強酸は彼の手を焼き一生黒革の手袋をするバイオリンを弾けない手にする。


火傷が治癒する間に彼の面倒を見た友人の姪と懇意になるが、これを嫌う友人に追い出されてオランダに追い出される羽目になる。


ウェルダンは得意の大言壮語のお喋りでフランスのポンパドール夫人の眼にとまりサンジェルマン伯爵の称号を与えられる。しかしウェルダンの権力に屈しない異常な誇りと雄弁な狂気にも似た大言壮語は彼を失脚に導く。そしてローマに転身して得意の美学の知識を利用してイギリス人観光客のガイドをしているうちにマルティンと会う。

 

追放イエズス会士とウェルダンの一行は検問を避けて裏道を抜け、キノコや蝸牛を食べて旅をし、プロシャに着いてフリーメーソンを詐称するウェルダンは老フリードリッヒ2世に取り入る。ここでまたウェルダンの図に乗る悪癖が現れる。ウェルダンの大言壮語を誇り高いフリードリッヒが揶揄することに対して、ウェルダンの狂気が破裂して叩きだされる。


ハノーバーに流れ着いた一行はドゥミトリが客死し、街をうろつくマルティンは不審者として捕まりアメリカに追放されそうになる。ハノーバーはイギリスのジョージ王の支配下にあったためウェルダンは昔のコネでマルティンを救う。2人は更に北に進みデンマーク支配下のフィヨルドの中の小国に辿り着く。この小国の大公はウェルダンの博識を知っていて宮廷招き、マルティンは才能を見込まれ2人の親王の画の教師になる。王妃の誕生日が近付くと幼い親王たちは幻燈を作って母を喜ばせたいとマルティンに協力を頼む。


王妃の誕生日の夜会での幻燈は大成功だったが、ウェルダンは自分が原理を発明したものをマルティンが盗んだと発狂状態になって夜会をぶち壊す。怒った大公は衛兵に命じて庭で鞭打たせて半殺しにして、真夜中に街の広場に布で包んで捨てさせるが、街の人たちの慈悲で血だらけのウェルダンはかろうじて生き延びるが結局は非業の死をとげる。

 

王妃の恩寵を得たマルティンは、大公の著書をパリで出版することを頼まれてハンブルグからパリに出発する。その途中で出版のために同道した男の事故死で思わぬ大金をマルティンは手にする。


この金を持ってマルティンはパリに向かうがフランスは革命の真っただ中。ミラボーのプロパガンダの参謀であり出版社の経営者を紹介されたマルティンは、その印刷所に住み込む。そして表向きは革命家を装う。しかし、マルティンは経営者の色情狂の妻との愛欲に溺れてしまう。


そのパリで旅役者一座のリーダーと結婚し未亡人となったロゼーラ・フィエラモスカと娘のロべルタ(彼は自分の娘かとも思う)と偶然邂逅する。うらぶれた旅役者のロゼーラ。

その後にフランスでは外国人の追放運動起き、妻を寝とられた経営者の逆鱗も相まってマルティンもロゼーラもロベルタも逃げ出す以外の道はなくなる。


憧れのイギリスに行けなかったロゼーラが失意のうちに向かったのは、カナダの辺境の東海岸のノバスコシア州の小都市。

 

時間が経過して、いまこの小都市にロゼーラの娘のロベルタ・ファーガソン夫人がいる。ファーガソン演劇一座はボストンでの旅興行を終わって、ここ鯨油とクジラの内臓の腐った臭いで満ちた小都市で興行しようとしている。演目は《僕がバンパイヤについて知っていること》。

ロベルタの祖父のベンベヌート・フィエラモスカは90歳の涎をたらす呆け老人。マルティンは酒びたりで売春宿の常連の精神錯乱。

そしてロベルタが主演の演劇の緞帳が上がる。

 

イグナシオ・ロヨラが創設し、フランシスコ・ザビエルが日本に伝え、今も上智大学にその姿を残すイエズス会…。

この作品は、その誠実さと献身で人々の支持を得たが故に、当時の権力者と権威の亡者バチカンに恐れられて西ヨーロッパで追放の憂き目にあったイエズス会士の苦難の物語でもある。


《矜持を持つ人間が生き抜くことの難しさを読む時の息苦しさが、読み終わったとき日本にはもう滅多に見かけない矜持とは何かを教えてくれた》ことを感謝して、カサべージャ氏への哀悼の意を表しよう。

 

なお2010年からカサベージャ文学賞が新たに設立された。

 

 

 

Lauburu | スペインで | 20:36 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

蜃気楼のマーケット(2007年度ナダル賞作品)

 

私小説的日本文学や英米文学とはかなり趣を異にする、日本では読まれることが少ない粘着質のスペイン文学の一端を紹介しようと思う。いささか退屈であろうと思うけれども。


日常スペインで生活していると感じないのだが、スペイン文学を読み映画を観ると、その底流には何か暗い血の匂いを感じるのは僕だけであろうか。


『情熱の国スペイン』というようなステレオタイプのスペインとは全く異なったものなのだ。有史以来フランコが独裁政権を作るまで、僅か25年間の戦争のない時代もなかった、激動のイベリア半島の歴史を理解しないとスペインの理解には程遠いのであろうか。僕の理解を超えた何かが惹きつけるのだ。

 

スペイン最高の文学賞である2007年度のナダル賞作品Felipe Benítez

Reyesの《蜃気楼のマーケット:Mercado de espejismos》を昨年の秋の終わりに本屋のショーウインドーで見かけたときに、最新の受賞作を早速読んでみようという気になった。


ハードカバーで400ページの長編で、多くの本を読んだ僕も今まで出会ったことのない奇怪な本だった。古美術や骨董品や稀覯本の窃盗と偽造を生業とする連中の世界を描くにしてもだ。それにしても終止符なしで1ページ、長い時には2ページも延々と続く文章は、時に「脳の疲労」に由来する思考の倦怠感を呼ぶのだった。  

 

縦横無尽の余談また余談、哲学的蘊蓄また蘊蓄、学識過剰の雑学につぐ雑学、卑猥にして神秘、嫌悪感と興味、うねる文体の幻惑、事実と虚構のごた混ぜ、錯乱の世界への誘惑、抱腹絶倒の残酷で異様なハチャメチャ、何かペーソスを誘う繊細さ、ウンザリさせても離さない妙な魅力…もしかしたら、著者は僕の思考の振幅の頼りなさをもてあそんでいるのかも知れない。

 

話が話だけに登場人物も奇怪な人類のレパートリー:


誰もがいやがる埋葬したばかりのセレブの墓の副葬品の盗みが得意な奴;
仕事は堅実だが、飲むと何本の歯と何枚の耳が家に帰るのか分からない奴;
毒殺の大家で薬の調合に余念のない奴;殺された殺し屋の情婦で髪の毛を群青色に染め黒いアイシャドウの上に銀の星を散らし、肩から腕には鱗のあるとぐろを巻いたトカゲの入れ墨をしているラリッている女;
聞いた話を自分が主人公に置き換えて幻想の世界に住む奴;
人から人へと陰口の連鎖を作っておこぼれに預かる乞食のような奴;
あまりに汚いので、近づくと追い払うために人は彼がのぞむものを与えることを生業にしている奴:
などなど、ゾロゾロと20人近く現れる… よくも変な奴をこれほど考えつくものだ。

 

そして登場する変人奇人一人一人に、著者の終止符のない、うねるような文体での紹介がなされる。大いに端折って一つ採り上げれば:


《……わたしの知る中で最も精神錯乱した人物のアンドラーデは政治亡命者の息子で、フランスでは変人の将来は前衛詩人のようなものだった悪い時期に両親が死んで、スペインの親戚が彼を正式に養子にするまで幼年期をフランスで過ごし、その後の負の振れや不都合な振れのまにまに、少なくとも彼が弁護士になるのを見ようとする家族の望みを裏切って、素晴らしい技巧を使う手仕事の靴直しになったのは、靴は我々の顔よりも更にもっと早過ぎる老化で傷つきやすいものの一つであっても、アンドラーデの手にかかると全ての靴が若返えるからだった。彼の店では傷んだ靴と、現実とは何ら関係のないあらゆる事柄についての本が混じっており、アンドラーデは作業のないときはそれを読み、仕事のある時には読んだことを反芻し、かくして彼は理屈中毒になって行くのだった…… 彼の狂気は理屈っぽい狂気なのだ。人が彼と2分話すのは、引退寸前の精神科医のカルテ集を始めから終わりまで読むのと同じことなのだ。
彼の狂気は一種の強烈な狂気で、彼が発するすべての言葉は聞く人に千の言葉としてのし掛かるのだ……彼の特徴を仕上げるために云うのだが、アンドラーデはオカルトに夢中であるが、同時代人たちが地球の魔王の声とし、ラベライスのような人間は単なる冗談とする、プロバンス人のノストラダムス教授が持つ神秘的な資質はない。アンドラーデは、予見能力があるプロバンス人の未だ履行されない予言の解釈に時間を費やし、余暇の可成りをこれに使ったが、判断力増進のためには、少々心休まる知的作業に費やした方がよいので、これは精神異常者には適さないようだった。教授のまねをしてアンドラーデは、解ける人がいない極めて難解なクイズを創るのに時間を費やしたが、彼に云えるのは、師匠のように韻を踏む予言を創ろうとは考えないということである:彼は、叙情の飛翔のミューズもエラスムスの資質も持たないので、韻を踏まない言葉遊びや謎々で客を苦しめることに満足したのだ……彼は仕事場として、我々の家の直ぐ近くでウエハール伯爵の城館の厩務員たちが住んでいた、壊れかけた狭くて汚い部屋を借り受けたのだが、換気工事のときに、仕事をしていたタイル職人は壁に穴を開ける際に壁で塞がれた抜け穴に出くわしたが、その抜け穴は、柱頭がグロテスクな光景を呈する4本の柱で支えられた地下室に通じていたのだった:子供を喰う修道士;山椒魚の顔をした修道女とソドムする悪魔;人間の外部性器を持ち教皇のティアラを髪に着けた蝙蝠;串刺しの天使の4つの柱頭(もっと品の良い比喩はないものか?)。

周囲 の壁はむき出しの煉瓦で、一つの壁はバッカスのテーマや、牧神、サテュロス、放蕩なニンフやその種の人間のデッサンの壁画で飾られていた……地下室の床は水の浸透によって常にちょっぴりの水があり、むき出しの電球は湿度を好む虫が一杯で死者の世界の悪臭のある地下室を照らしているのだが、市庁舎の技術者がアンドラーデに、愚行の連続で知られるアルベティート伯爵が60年代に建設を命じた酒蔵であるといくら説明しても、彼はそれは何かの宗派の犠牲者の地下納骨堂であったと確信しているのだ。だが、そこが立ち小便の場とネズミの避難所に変わったので、近隣の圧力によって市の支所として使うために収用の行政裁判と城館の総合改修工事計画が進んでいるのに、アンドラーデは彼の狂気によって、熱中する人にも、しない人にさえも、誇らしげに酒蔵を示すのだった……そうこうするうちに、一般的な狂人特有の能力によって、彼自身が最後には信じるに至るその場所にまつわる伝説をじっくりと考えることが出来たのだった:『ここです、丁度真ん中に生け贄たちは横たえられ、そこで短剣を持った騎士たちが、一人一人…』》。

 

この調子で登場人物20余人が解説されるのだから何ページあっても足りないくらい。まして一つ一つの平凡なことにも独特の学識に富んだ解説がつく。

例えば:

《空港というものは、わたしが知る限りで最も非現実的なスペースなのだ:ショッピングセンターと歯医者の待合室と温室と少々傷んだ宇宙船のハイブリッド》(僕はイメージできません!)


《陶土の壺や死んだウサギや円い大きなパンがテーマの、わたしの推測では20世紀半ばの出来の悪い偽造品だが、云ってみればベルサイユ風に額装された、削り取りと松脂でざらざらにして年代物風にされた、しまりのない黒ずんだタッチの油絵が大きな顔をする小さなサロンで…》(素晴らしい饒舌)


《透視能力があると自称する教授は、コンピューターのスクリーンでGoetheGoebbelsの言語で伝えられることを翻訳し始めた…》(何で ゲーテとゲッベルスを並べなければならんのだ!ゲーテが怒るぞ!
このような対比をどのようにして思いつくのだろう。単なるGoeの語呂合わせ?)


《悪魔崇拝者は略奪で得た神聖な物を戦利品のように見せびらかすと同時に、聖遺物を冒涜して喜ぶのだった。例えば2年前にフォルメンテラ島で行われた儀式では、数人のマルセーユの悪魔崇拝者たちは、満月の光の下で不浄な行為をした後で、スペインのセウ・ド・ウルヘルの聖堂からその日の朝に盗んだ、聖プラセデスが2世紀に殉教者たちの血を拭った海綿で彼らの外部生殖器を洗ったのだった》(なんという奇怪な発想!)

 

一般的に小説では、本筋のクリスマスツリーを引き立たせるために余談や饒舌が周りを飾るものだが、この本で本筋…あるとすればだが…は余談や饒舌の綿菓子のための割り箸に過ぎない。それだけに何が飛び出して、どう絡み合って行くのかが予測できない突飛な面白さがある。

 

【今は亡き、その世界では名を知られていた父を持つ凡才の息子ハコブと、父が若い時に養女にしたルーマニアの貧乏農民の才女コリーナのデュオが狂言回しで、寄る年波と窃盗計画の依頼の少なさから引退を考えていた彼らに、神と話すことが出来るプリズムを創ることを夢見る、昔、父が可愛がった放蕩者のメキシコ人サムが望外な依頼をしてきた。依頼はいわゆる《東方の三賢人》の遺物…有為転変の故事来歴が多すぎて聖人の骨なのかマクドナルドのフライドチキンの骨なのか(ケンタッキーと間違えていないか?)分からないけれども…をケルン大聖堂から盗むと云うものだった。彼らは紹介された奇人たちから工作員を捜すが当てにはならない奴ばかりだが頼らざるを得ない。現地に行って下調べしても簡単に盗める状況ではないうえに、死の影さえ感じられる、そしてサムの言動がどうもおかしい。


ことの経緯を手当たり次第にあたっても要領を得ないので、コリーナはもう止めようと主張するが、ハコブは意地になって、事実を掴むために透視予言者にまで相談する始末、だがますます迷路に入って行く。コリーナは『しょせん人は知ったかぶりをしても、本質は何も知らないのです、物事は説明出来ないものが多いのです』とハコブを諫める。


ハコブの電話を逃げ回るサムを捕まえるために、現代離れしたハコブも、遅まきながら掛け主を電話番号で察知出来ない公衆電話でサムを捕まえ真相を質す。嘘か本当か分からないがサムが云うには:

いかさま説法で財をなしたアメリカのインチキ聖職者が、ケルンの聖遺物を手にするための窃盗団のルートを探った揚げ句にサムに行き着き、サムは2ヶ月以内にそれを届ける約束をして大金をせしめたが、これが全ての発端だった。そして、このほかに聖遺物を欲しがっている人間も少なくない:

〈タルモ〉:ヨーロッパ中の聖遺物の略奪の波を悪魔崇拝者から防ごうとするバチカンに雇われている。(何のことはない略奪の波は、タルモがもっと大きな仕事をするためにバチカンに潜り込むための戦術だったのだが)

〈サバージュ〉:先祖代々敬愛する3人の錬金術師の遺骸が納められていると云われるケルンの聖遺物箱を監視する結社の現在の指導者

〈アブデル〉:彼の修道会の法典でもある、聖遺物箱の中に納められていると云われるトリスメギストスのエメラルド板を自分のものにしたがっている

〈モントルファノ〉:聖遺物箱の中にあると云われる3つの物、ソロモン王の指輪の複製、目の形の鍵、砂時計を欲しがっている。

などなど、彼らが出没しているとサムは云う。

 

一方でハコブに危惧を感じたコリーナは、密かにハコブの父親の親友で引退した偽大公シモーヌを探し当てて、やっと聞き出したことはとんでもないことだった:

破産寸前のハコブの父は死を予感した1997年にハコブとコリーナには内緒で、サムとタルモの力を借りてケルンの聖堂の聖遺物の窃盗に成功した

が、同時にモントルファノ、アブデル、サバージュの怒りをも買ったのだった。


そこでタルモは自分の取り分である、東方の三賢人のものとされる聖遺物をケルンの大司教に買い戻すように持ちかけたが拒否され、サムはモントルファノと仲違いして自分の取り分のソロモン王の指輪の複製、目の形の鍵、砂時計を売ることが出来ず、父もアブデル・バリと仲違いしてエメラルド板を売ることが出来なかった。そこでサムとタルモが父の持ち分を買い取ったが、手元不如意のため父に1,000万ペセタの約束手形を切り、父は全てのロットを自分の金庫に預かったのだった。


そして今、サムとタルモは市場を活気づけるために、ケルンの聖堂の聖遺物のあり得ない窃盗をでっち上げてハコブを巻き込んだ。当然のこと、サムは

ハコブの父の死で当然ロットはコリーナとハコブが相続したものと思い、その他の利害関係人はコリーナとハコブが彼らの遺恨を父から相続すべきだと考えた。


サムはケルンに2人をおびき出した折りに、工作員を雇って彼らの家の金庫を
開けようとするが暗証番号が分からず出来なかった。

ハコブの父はシモーヌに盗んだ商品で懸案事項のモントルファノ、アブデル、サバージュとの問題を解決して、金を手にしたらシモーヌに対する父の借金の清算に当てて欲しい。金庫の暗証番号はシモーヌの心の中にだけしまっておいて欲しいと頼んでいたのであった。暗証番号を知らせるのを拒むシモーヌから、マタハリズムを発揮したババの色仕掛けでコリーナはやっと聞き出したが、シモーヌは金など欲しくはないが、ハコブたちのために商品の処分先をシモーヌが決めるまでコリーナは誰にも云わない約束だった。


そうこうするうちに、サムが金庫破りを連れて乗り込んできたが一向にらちが明かない。イライラするサムはそこにあった杖をもて遊び始めたが、そのうちに杖の握りに彫られた記号を見つけた。コリーナが備忘のために彫っておいたものだった。金庫破りに見せると彼は直ぐにピントきて、記号に従ってダイアルを廻して解錠した。金庫を開けると、確かに全てのロットがあり、サムは2人に迷惑料として全てのロットと引き換えに9,000ユーロ払うと云うが、コリーナは金庫の中で見つけた、サムが父に60,000ユーロ相当を借金しているのを認める約束手形を盾にとって、その金額を巻き上げて全てのロットを渡して厄介払いをしたのだった】

 

1945年の第1回受賞作品の《何もない》に出てくるのが変人奇人ばかり、62年後の2007年の最新受賞作に出てくるのも奇人怪人ばかり。

では2008年 受賞作が出版されたら早速読んでみよう。


もしこれにも変人奇人が集団で現れるならば、数学的帰納法によれば(この表現こそ著者に洗脳された証拠か?)ナダル賞の作品とは、奇人怪人列伝の小説と断定しても良いのではないだろうか…まさか!


奇しくも毎年1月6日《東方の三賢人の日》にナダル賞は発表されるのだが、2008年受賞作はフランシスコ・カサベージャの《僕がバンパイヤについて知っていること:Lo que sè de los vampiros》だと云う。題名からして何となく僕の推測が的を射ているような気もするのだが。

 

東方の三賢人伝説の由来と実在性、その遺骸…と称される物…の真贋と有為転変の放浪を、事実と推測、実在の人物と伝説の人物を混ぜ合わせて十重二十重と検証を重ねるのにウンザリして、三賢人の解説書を読みたいわけではないと何度も本を投げ出そうとした。


しかし、ただごとではない著者の頭脳構造から放出される綿密な考証に基づく《研究論文》ではないのかと思い始め、プラド美術館の三賢人を描いた絵を眺めただけでは分からない、コリーナを通して表現する、何か奥に潜む著者の隠微な空想力と示唆の魅力に惹かれてまた読みつづけ、読み終わった時には奇矯な達成感と疲労を感じたのだった。

 

詩歌、小説、童話、戯曲、エッセイ、翻訳と多彩な活躍をする著者の、衒いの多い哲学的考察をはじめとする多彩な変化球に僕は惑わされ続けたのだった。


最後に彼が云うには《色々なことが沢山あるが、貴兄たちの忍耐力を悪用しすぎたのでその説明は省こう》だって。確信犯なのだ。

 

 

 

 

Lauburu | スペインで | 20:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

グラナダ、そしてパラドール


 僕にとっては1975年に、そのあまりの静寂さと幽玄さに夢の世界に引き込まれたアランブラ。オリンピックと万博が同時にスペインで催された1992年には、連なる観光バスの排気ガスと騒音と埃と、観光客が投げ捨てたパンで幻滅の世界に突き落とされたアランブラ。


もう二度と訪れることはないと思っていたのだが、取れないことで有名なパラドールが偶然予約できたので、20年を超えるパラドール巡りの最後、36番目の卒業旅行としてアランブラのパラドールを訪れることにした。


グラナダのパラドールは14世紀に建てられたイスラム寺院(モスク)が起源で、スペインで最後のイスラム教主国が陥落した15世紀に、カトリック両王(イサベルとフェルナンド)によってサン・フランシスコ修道院に変えられた。

建築様式はイスラム教とキリスト教の要素の組み合わせで、その時代の完璧なシンボルとも云える貴重なものだが、何といっても世界で一番ロマンティックな建造物と云われるアルハンブラ宮殿の中にあるのが最大の魅力だ。現在のパラドールは修道士の居室の雰囲気を保ちながら改造した36室で構成されている。


《パラドールのファサード》


《静かなパティオ》


ヘネラリーフェ庭園の遠景を、パラドールのテラスでジントニックをすすりながら眺めて取りとめもないことを考える…何も考えていないのかも…


風に吹かれて木の葉がオリーブの実の皿に舞い落ちる…取り去る必要もない。皆敷と思えば風流なものさ。



パラドールの中でも最も人気があり、都合の良い日を取るにはかなり前から予約しなければならないこと、部屋も構造上の制約から広いとは云えないことなどからスペインの人たちには馴染まず、宿泊客はもっぱらアメリカ人、日本人などのパラドール好きが多いようだ…日本の若い女性の泊り客が多いのに驚く。


ここは日本で予約すると何と1泊ツインで50,000円を越すそうで、全体的に手狭な感じがするので損した失望したと云う人も多いらしい---近代ホテルの装備を期待するのなら、世界遺産の由緒ある建物を改造したパラドールに泊まるのは筋違いだし、偉大な文化遺産の中で一夜、思いを巡らす意義は大きいと思うのだが。

 

乾燥し切ったアンダルシア。しかしアランブラでは至る所に細かな水の演出が組み込まれているのを見ると、あの遠くに見えるシエラネバダの山頂の雪解け水を引いてきたイスラム教徒のいにしえの執念に感心するばかり。


ダマスカスからマグレブを経て、アル・アンダルースで初めて手にした昔からの憧れの水なのだろう。一見平凡な点景だが…彼らには宝石にも似たような…



【グラナダ王立礼拝堂で】

1469年に当時のイベリア半島の2大勢力、カスティージャの女王イサベルとアラゴンの王フェルナンドが結婚して、スペインの統一国家の基礎が出来たと云われるが、未だ南のグラナダではイスラム教主国が残り、群雄割拠の混乱から国中に山賊が跋扈していた時代であった。

イサベルは警察機構の強化や、イスラム教徒の放逐や、コロンブスの航海の援助資金集めや、地方の豪族の協力を取り付けるために、眼を吊り上げ髪を振り乱して国中を行脚しているのに…見てきたような嘘ですが…、ああ、それなのにそれなのに、能天気なフェルナンドは至るところで何人私生児を作ったことか。歴史書も詳らかにしていないのは数え切れないからか?


イサベルがこよなく愛したグラナダ、その中心にある王室礼拝堂の霊廟には、イサベルとフェルナンドの遺骸が安置されているが、右のイサベルの彫像と左のフェルナンドの彫像が互いにそっぽを向いているのを見ると、この
彫像の作家Domènico Facelli(名前から判断するとイタリア人のようだが)の両王への大胆なブラックユーモアのセンスには感服する。


《写真は厳禁なのでパンフレットから借用した》

【パラドールの意義】

パラドールは1928年、今の国王の祖父のアルフォンソ13世の時代に第1号がアビラのグレドスに出来て以来、現在は93を数えている---いまだに増え続けているのを見ると、スペインの国宝級の建造物の多さに驚くばかりだ---貴族階級が経済的に持ちきれなくなって館を譲渡あるいは賃貸するケースが多いようだが。


1939年にフランコ独裁体制が確立してから、外貨を獲得するために観光立国を目指してパラドールは一気に増え、他方では極貧のために『飢餓海岸(Costa de la hambre)』と呼ばれた地中海岸が現在の『太陽海岸(Costa del Sol)』に生まれ変わった。
フランコを嫌って海外に逃げた人たちが、本国からの手紙で、《アンダルシアの百姓が腕時計
をしている》と書かれているのを読んで我が目を疑ったという。                                                                     

僕は独裁制を容認するものではないが、フランコの独裁でスペイン経済が甦ったことは認めざるを得ない---いまの中国と極めて類似していると思う。

しかし、ヨーロッパ共同体の一員となった今では、昔の観光政策の英文のコピー『Spain is different』は消えつつある---日本では相変わらず『情熱の国スペイン』が売りだが---僕はスペイン人が情熱的と感じたことは一度もないが。

 

国宝級の建造物を一般にホテルとして開放する。その中には貴重な調度品もある。このようなことを肌で感じて人々は祖国の文化を誇りに思う。


正倉院の御物などの国宝級のものは、何年かに一度は下々に見せてやるという態度だが、これでは若者たちは日本の伝統文化を肌で感じられず、祖国の本質も分からず、尊敬の念もわかないであろう。国宝にいたずら書きをする頓珍漢を生むだけだと思う。


何も桂離宮をパラドールにしろと云っているわけではない。国宝は大切なもので軽々しく扱うものではないとしまい込んでしまうのは、守銭奴の爺さんが金を有効に使うことなく死んでゆくのと同じことだと思う。
国宝はそれだけでは何の意味もない。国民に自信を与えるからこそ国の宝と云うのだと思うから。

 

【僕の最愛のパラドール】

宿泊した36のパラドールのなかにはグラナダ、サンティアゴ、レオン、トレド、SOSなど素晴らしいものが沢山あった。しかしウベダ(Ùbeda)のパラドールは奇妙に印象に残るものだ。


ウベダはグラナダの北100キロのところにある人口32,000の小さな街で、貴族政治時代の建築物が豊富な歴史保存都市である。アンダルシア高原に雲海のごとく広がるオリーブ畑の中を車を飛ばして行くしかないので、日本では殆んど知られていないが、16世紀ルネッサンス様式の貴族の館を改造した素晴らしいファサードとパティオを持つ、30室のこじんまりしたパラドールの印象は瞼の奥に焼き付いている。もう一度、是非行きたいパラドール。それはウベタだ。


《左がパラドール:午後3時、シエスタで閑散とするパラドールと教会前の広場を、飛ぶ鳥が焼き鳥になって落ちるような「熱い」光の中を歩き回るのは僕くらいだった》


【観光地、そして観光客】

観光名所はその周辺が需要な役割をする。名所へのプレリュードでなくてはならないから。

屋外広告やみやげ物屋をかき分けて、行き着いたところに壮大な滝があっても何だというのだ。名刹を乱雑な町並みが囲んでいては興ざめだ。


名所とは、そこに行き着くまでに何かを予感させる周辺の雰囲気が大切で、観光客を徐々に彼の《非日常性》に導かなければならない。

僕がアランブラにまた来ようと思ったのは、今は人だらけの本尊よりも…写真集で十分だし…そのアプローチに惹かれたような気がする。


僕が知る限りでは、スペインで騒々しさでは右に出る街がないグラナダの中心から少し外れて古い商店に挟まれた細い坂道を少し行くと、『ザクロ(グラナダ)の門』に着く。

門を過ぎると乾いた世界から全く別の水音の世界に突然入り…この驚きは乾いたダルシアならではだ…小砂利を敷き詰めた坂をゆっくりとアランブラに向かう。小路の両側の水路を流れる水の音を聞きながらの木立の中の20分の散策。車では味わえないせせらぎの音の世界。これが素晴らしい。一気に逆転する世界。


《ザクロの門:左手の門を過ぎると遊歩道がある。以前は中央の門をアスファルトの車道が抜けていたが、この石板敷き工事は車を遮断するのが前提なのだろうか》



《遊歩道:小砂利の坂道(Cuesta Empedorada)



外国人が、余韻のない日本の観光名所よりも、むしろ有楽町のガード下でリンゴ箱に座ってチューハイを飲みモツ焼きを食べるのに感激したり、向島の木造家屋に挟まれた路地に置かれた盆栽に熱心に見入ったりするのを見ると、彼らにとって非日常である日本の《日常の雰囲気》をありのまま感じるからだろう。立派な観光名所だと思う。


僕がこよなく愛するパラドール(ポルトガルのポウザーダもそうだが)は、住民にとっては普通に生活する《日常の雰囲気》のなかにシレッと存在する。だから僕はパラドールに感動する。

 

観光客についてジャン・ポール・サルトルが《ヴェネツィア、わが窓から》で面白いことを書いている。

…観光客の心理とは天邪鬼なものだ。彼は誰もが訪れ、誰にも眺められるよく知られた場所を、彼だけの場所として取っておきたいのだ。秘密の場所--秘境。とはいえそれは人に知られていなくてはならないのだ。人に知られた秘境であり、彼だけが知っている場所でなくてはならないのだ。こうして《著名な秘境》という背理が観光客の秘められた情熱となる…


僕も含めて観光客という種族は奇妙な習性があって、同類の観光客をもっともいやな存在として軽蔑し避けるのだ。観光名所は一人で独占したい。だが誰もそこを知らなければ《見て来たぞ》と自慢も出来ない。サルトルはその矛盾を見抜いている。


その点でパラドールは、訪れた少数の人たちの間でのみ理解しあえる、観光案内書にはない控えめの観光名所なのだと思う。

著名なモニュメントはなくても、歴史のある建物に泊まり、これを包み込む歴史地区を散策し思いを巡らし、バルで食べ飲み、主人に《最高に美味しいよ:リキッシモ》と云えば、にっこり笑って片目をつぶって挨拶して呉れるだろう。自慢のタパスの味が分かるなら誰でも大歓迎だ。心のふれあいなのだ。日本人にとってこんな国は珍しい。

 

情報社会では名所の風景はインターネットやDVDで手に入る。航空撮影などは一見の旅行者には及びもつかない風景を見せてくれる。

だから僕は専らこれらを観光の代わりに活用している。しかしその街が持つ歴史の雰囲気や、住む人たちとの触れ合いはパソコンやDVDでは手に入らない。この数年、僕は観光をハードから雰囲気を知るためのソフトにシフトさせている。そこに住む人たちへの尊敬の念と、好奇心と味覚さえ養っておけば言葉などは片言で充分だから。
                                         

 

 

Lauburu | スペインで | 16:00 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

トレド再々々…訪


『もしスペインに1日しか滞在できないとしたら迷わずトレドに行け』というのは名言だと思う…中世の状態そのままに冷凍保存されたような街。


マドリードに住んでいたときには、トレドまでバスでも電車でも1時間強で行けるので

気軽に訪れたもので、7回までは数えたがその後は数えなくなった。(今回、マドリードとトレドを30分で結ぶ高速鉄道が開設されていたのにはビックリ)


僕はスペインに約100箇所あるパラドールの名だたるところは殆んど泊まったが、トレドの全景を見下ろせる丘の上にあるパラドールの《眺めの良い部屋:74室のうち5室しかない》と、アルハンブラ宮殿の中にあるパラドールは予約が取れなくて泊まったことがなかった。


これは僕に、素敵な夕食の後でオルーホ(グラッパ)を端折ったような、何となく物忘れしたような落ち着かない気分にさせてきたのだった。そうだ今年はトレドとグラナダのパラドールに泊まって、永年のパラドール探訪の総括の年にしよう。

 

昔、僕はニューヨークのメトロポリタン美術館でエル・グレコの《トレドの風景》を見て得体の知れない気持ちになった。何かザワザワする。

『嵐を予感させ、魔物が現れそうなトレドってどんな所だろうか?』

 

その後、スペインに住むようになってエル・グレコに魅入られたようにトレドに通ったのだが、その度にエル・グレコの目と、それに繋がる脳の構造がどうなっているのかを不思議に思った。大胆な省略とデフォルメとを可能にする感覚は何処から生まれるのだろう。視神経回路の途中にトランスフォーマーが組み込まれているのだろうか。わけ知り顔で『彼は乱視だったそうだ』などと云っている幸せな人も居るようだが。しかし心眼という言葉もある。

 

僕のような人間には今までトレドを何回眺めても、どうしてもエル・グレコの絵の省略とデフォルメが分からなかった。これは《物事をありのままに見る》ことを教育された、自然科学を学んだ人間の習性なのだろうと思っていた。


《エル・グレコのトレドの風景》


《僕の眼に映るトレドの風景》




今回はパラドールの部屋のテラスから朝な夕なに何も考えずにトレドを眺めていた。何時間眺めたのだろうか。そのうちに妙なことが気になり始めた。


今まではトレドを代表する建築物と思い込んでいた4つの尖塔を持つアルカサルが、トレドの街のヒューマン・スケールから見ると何かアンバランスで違和感があると感じるようになった。建物のボリュームとしては今の3分の1程度のほうが絵画的には街に調和するのではないだろうか。


エル・グレコは絵の中で意図的にアルカサルを無視あるいは圧縮変形しているのではないのか。街全体としての美的バランスに欠けるとして。

 

現代では巨匠と云われる画家が、存命中は才能が時代に先行し過ぎて貧窮に苦しんだ話は枚挙にいとまがない。時が経過した今、僕はエル・グレコに感動したとは云うが、本当に感動していたのだろうか。

天才の頭脳の深奥まで理解するのは自分の器量の問題なのだが、エル・グレコに共感出来るのも、時の流れが僕に与えてくれた知識の力があるからだろう。写実主義の絵画しかない時代だったら《トレドの風景》には変な絵としか感じなかったに違いない。

トレドを代表するアルカサルを省いた絵に違和感を覚えながら、心ではなく頭でエル・グレコの《トレドの風景》を《感じなくてはいけない》と思っていただけなのだ。だが頭を空にして虚心坦懐にトレドを見ていると、思い込みを超えたものが見えてきた。

 

いつも街を射すくめるような光線を放つ青く抜けるようなトレドの空を、エル・グレコは風雲急を告げるように描く。彼が生きた時代を掴み取る天才の業…心眼…なのであろう。自分の眼に映るトレドの上辺だけを見て、トレドの美は奈辺にあるのかを見抜かない限り、僕は案内書を携える行きずりの観光客に過ぎなかったのだ。何度足を運ぼうとも。

 

ゴッホと同じカンバスを使って、同じ質と量の絵の具を使って同じようにひまわりを模写しても、ゴッホの絵は何十億円で、僕の絵では粗大ごみ引き取り料を払わなければならない。

大切なのは先達の偉業を頭で解釈し《なぞる》のではなく、未熟であっても自分自身の中に生まれる素直な感覚…心眼…を抑えつけないことなのだ。

これがパラドールに泊まってトレドを凝視した結論だった。こんなことを知るのに足掛け10年もトレドに通ったことになる。しかし無駄ではなかった。

 

若いときに会社の社員研修会で『君はどんな人間になりたいか』と訊かれたので、僕が『見えないものが見える人間になりたい』と答えたときに、講師に『お前さん変わったことを云うねえ。見えないものが見えるわけがないだろうが』とからかわれて嘲笑に包まれた。

そのときに『こんなに多くの心眼がない連中がいる会社だったら、自分の好き放題が出来るぞ』と僕はかえって自信を持ったはずだったのだが、自惚れに過ぎなかったようだ。

 

今、トレドと僕の新たな付き合いが始まったようだ。西ゴートがモーロがカスティージャが要害の地として首都を構えたトレド。権力者を惹きつけ歴史に翻弄された魅力。世界に類を見ないイスラム文化とキリスト教文化とユダヤ文化が混淆する複雑さが発する霊気。

もう少し深くトレド史を学んで新しい《眼》を持って訪れよう。何年後かは分からないけれども必ず。トレドはそれ程に奥深い。
信じられないほど君が好き:Increiblemente te quiero。

 

まわりを白色に変えシャツを射抜くような、5月を半ば過ぎたカスティージャ・ラ・マンチャの昼下がりの日差しの中を、パラドールから1時間ばかり歩いて丘を下ったら、眼が眩みお腹がすいてきた。

家路に着く前にタパスを食べよう。人が多くて落ち着かない広場のカフェテリアは避けて、日差しが入り込めない涼しげな錯綜する小径を、何も考えずに行き当たりばったりで歩いて時を過ごしてから、そこでひっそりと入り口を開く何時もの
カフェテリアで、定番の自慢のタパス、鹿肉のコロッケをつまむとしよう。
今日は今までとは違った特別な味がするかも知れない。


《小径のカフェテリアと鹿肉のコロッケ》




《トレド夜景》


《1928年に開設されたパラドールのファサード》




《トレド銘菓マサパンの老舗》          《マサパン(アーモンド餡の饅頭?)》

Lauburu | スペインで | 06:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

スペインに居て思うこと

 

かつてヨーロッパやアメリカに行ったときは何時も、街が、人々が放射する非日常性が、僕を新鮮な刺激と歓びで満たしたものだった。だがスペインに住み始めて7年、この非日常性という感覚が大きく変化していることを感じる。


先日、シシリアのパレルモを訪ねたときにはっきり感じたのは、変遷する時代の建築様式とシシリア史への興味の中で、アラブ・ノルマン建築にテーマを絞らなかったら、僕は何をしに来たのかと思ったことだろう。スペイン、つまりヨーロッパの一隅に住んでいると、街の外見だけでヨーロッパ的非日常性は既に感じなくなっている。

 

スペイン物でデビューした作家の逢坂剛氏が、『スペインに住んで書く積もりはありませんか』と訊かれたときに、彼は『渦中に入ると感激がなくなるので、その積もりはありません』と答えていた。異国情緒としてスペインを捉えて書くほうが、中に入り込んでも理解し難い異国の細部を書くよりも、読者受けが良いということであろう。

一方で、今は大流行作家の佐伯泰英氏が、闘牛写真家として4年のスペイン滞在の後に、ヒトラーの無差別爆撃をテーマに『ゲルニカに死す』を書いたが、日本では馴染みのないゲルニカの描写では一向に売れず(僕には面白かったが)、時代小説に転向したのも良く分かる。

 

スペインに住もうと考えたときに、引退後の安穏たる生活を送るつもりはなかった。還暦を過ぎて何か今まで見えなかったものが見えるかも知れない、と淡い期待を持っていた。人が見ればグリコのおまけほどの価値もないにしても。
近頃、僅かながらも光が見えてきたことが嬉しい。

 

思えば能天気な人生だった。

サラリーマンの要諦は《上司に逆らわないこと》という先輩の忠告を鼻の先で笑って以来、
会社の人事異動の季節には、同期入社の人間には大幅に遅れをとり後輩たちには追い越される。
仕方ないさ。彼らは与えられたゴールに向かって必死に走っているのに、僕は路傍の花や美しい風景に足を止めて道草を食っているのだから。

どうぞお先に、お急ぎの方は。

しかし僕の楽しさは、何時も《もし時代が変わってゴールは前ではない、後ろだ》となれば《ビリの俺がトップさ》と思っていたことだった。


だが現実ははそんなに甘くはなかった。社外の人が僕を冗談半分で《組織内自由人》と呼んでくれたのが救いだった。

企業社会とは無関係に生きる今では、異質なものを排除する社会で大勢に媚びなかった生き方が意味を持つようになって来た。
エリートと自称する人たちの底の浅さが鼻につくようになって来た。
 

不思議なのは、スペインに馴染むほどに異邦人の自分を強く感じるようになることだった。外国の文化や歴史を学ぶたびに、意識下での日本との文化比較から逃れられないからだろう。率直に日本を学びなおして日本通にもなったと思っている。

《和魂洋才》が意味する健全なナショナリズムの本質がやっと分りかけてきた。

 

外国に住むと一方的な外国崇拝の日本蔑視となるか、一方的な国粋主義者になるケースが多いようだ。ひれ伏すか蛸壺に入るか。

異文化の中に住むと、自分が座標軸のどこに居るのを探らなければならないという精神的不安定さが常につきまとう。

日本語が全く聞こえない価値観が違う外国に住む意義は、日本人の民族文化を失わずに異文化とどのように折り合うかが問われることであろう。

 

日本の指導者の中には『新たな時代に対応するために価値観を転換せよ。発想を転換せよ』と檄を飛ばす人たちが見かけられる。

何も分かってはいないのだ。人間が営々と作り上げてきた今までの価値観や発想を捨てることは、新たな尺度を作り出すまで生きる基準がなくなることだ。
つまり一時的に精神的に空白になるということなのだ。人間の保守性は必然的にここに由来する。

この精神的空白に耐えられるのは、状況の安定が逆に精神的不安定をもたらすタイプの人間になることで、日本企業では嫌われる《平時に乱を起こす》人間なのだということが分かっていない。


経済発展のためには人間の価値観などは融通無碍と勘違いしているうちは、先進諸国から尊敬される存在となるには程遠い。彼らには確固とした価値観に基づく侵しがたい道徳的規範があるから。


貧しい時代の日本を知らず、経済大国になってから育った人たちの書いた物を読むと、これから自分たちは下ってゆく道しかないという諦観と、オタク的なディテールにこだわる内に篭もった閉塞感が感じられる。将来を見据えた価値基準が見出せないようで、豊かな時代なのに何となく貧相な感じを免れない。

錯綜する現代の世界で、自分たちの中だけで思考をいじくり回しているうちは、日本そのものの位置が見えてこないのははっきりしている。世界を制覇した後で色々な動乱を経て没落したヨーロッパが、今は共同体や共通通貨を立ち上げて、地味で落ち着いた成熟社会の中で生きる思考遍歴を謙虚に学ぶ時期に来ている。
ヨーロッパのアパレルメーカーの開店に長蛇の列を作れと云っているのではないのだが。

 

Lauburu | スペインで | 16:42 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |

風の櫛

 ドノスティア(サン・セバスティアン)の自転車散策。天気のよい日にコンチャ湾を抱く西側の半島の突端にある、チジーダ・レクの作品《風の櫛》を眺めたり、湾の中央の小島で巣作りす
る水鳥を単眼鏡で観察しながら日向ぼっこをするのも気持ちがいい。


《風の櫛》


そして、この作品の手前にある切り立った縦の地層は何か空想力を掻き立て、ここの直ぐ傍にあるピレネーの起源を勝手に空想させる。



ピレネーの麓のアンドラ公国に行って、東西に伸びる屏風のように聳え立つ山脈を見上げる
と、北ヨーロッパとイベリア半島の地理学的文化的相違を表現する、《アフリカはピレネーに始まる》ということを実感する。


古第三紀始新世というから今から4000万年くらい前のことだろうか、大宇宙の巨人が右手で今のフランスを掴み、左手で今のイベリア半島を掴んで、力任せに両手で圧縮した。大地は耐え切れずに轟音とともに水平だった地層が垂直に盛り上がって、屏風のようなピレネーが立ち上がった、というのはどうだろうか。僕はまた勝手にも、大宇宙の巨人をゴヤの作品と云われる《巨人》と重ね合わせてしまう。

僕にとって大ピレネーの起源と存在は、大きな興味を呼び起こす。


また同じところに《風の孔》がある。


波が岩壁に当たって地層内の空気が圧縮されると、間歇的に孔から空気が噴出す。これを知らずにスカートの女性が立ち止まっていると、昔のマリリン・モンローの映画の一シーンのようになってしまう。

 

さて、近くにあるチジーダ・レクの作品公園にも寄ってみようか。広い芝生の上に彼の作品が点在する。壮大なオブジェ公園。



走り回ってお腹がすいた、旧市内に戻って名物のピンチョスを食べよう。しかし自転車に乗るので残念ながらビール一杯が限度だ。自転車でも酔っ払い運転は酔っ払い運転だから。

Lauburu | スペインで | 14:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

闘牛のこと

僕がスペインに長居しているのに、フラメンコにも闘牛にも興味がないというと日本の皆さんは怪訝な顔をする。そんな僕でも先週の日曜日のテレビのニュースで日本人の闘牛士の映像…牛をかわし、倒し、その耳をかざして喝采に応える…を見ると何か関心が湧いてくる。

へぇ〜日本人の闘牛士がいるのだ、と。


早速インターネットで詳しい情報を調べると出てきたのでその記事を送ろう。

 

【記事:AFP】

Taira Nono,スペインで闘牛士(マタドール)になるために戦う日本人見習い闘牛士

見習い闘牛士のタイラ・ノノは、マラガのトレモリーノス闘牛場で最初の主役を演じて日本人で初めての闘牛士になる夢に近づいた。

ノノは云う。《 私は勝利への熱意を持っていることが幸せであり満足しています。私は闘牛の世界が好きで、スペインに居るのは史上初めての日本人マタドールになるためなのです》と闘牛士衣装を着けた35歳の彼は、2頭の若牛(ノビージョ)を倒し、ピカドールが切り落とした耳を持って、闘牛場の砂を離れる前に記者団に云った。                              

東京生まれで、日本のテレビでルポルタージュを見て夢を満たそうとスペインに来て12年目のノノは、最初はピカドールの居ない単純な闘牛に参加した。マタドールになるには《正式なマタドールへの昇格式》を通過しなければならない、つまり少なくとも4歳で480〜600キロの成牛を倒さなければならない。 

ここに行き着くまでに出来ることは若牛、つまり成牛より軽く若い牛、3〜4歳を扱うことである。彼のファエナ(牛をかわし最後に倒す一連の闘牛の演技)の後に、約300人の愛好家が集まって光り輝く緑と金に着飾ったノノに喝采を贈り、《マタドール》を合唱して彼を称賛し、白いハンカチを振りながら、闘牛の主催者に倒した牛の耳を授与することを求めた。

彼を評して《見習い闘牛士としては悪くない》、とアンダルシアの畜産家アントニオ・デラ・トッレはソンブラ席(日が当たらない上席)から云い、日本人の闘牛士を見るのは《少し奇妙》だが、ノノは《よくやっている》と認めている。《彼は雄牛を一突きで倒した。マタドールになるのは厳しいが、彼は信じられないような意思の力を示した》と付け加えた。                                           

《彼を励ますために日本人がやって来ました。私はマタドールになるのは難しいことと思うし、時間が必要ですが》、とマラガ近郊に住み、他の日本人とタイラ・ノノを見るためだけに来たイトウ・チエは云う。                                                 

闘牛だけで生きられる日を夢見て、今のところノノは、彼がデザインした闘牛士への昇格用の2着の光り輝く服を持ち、彼の住むウエルバ地方で果物や野菜を摘んで生活費を稼いでいる。そこで彼は2年前に結婚し、日本大使やウエルバ市長が馳せ参じたイベントの後で、彼は数頭の若牛をあしらったとエル・ムンド紙は伝えた。                      

今まで何人かの中国人や日本人が闘牛に飛び込んだが、マタドールになる昇格式を手にしたものは居なかった。タイラ・ノノは他の日本人、《日出る国の若者》がニックネームで、ある程度の名声をスペインで得たが、1995年に負傷して左足が不自由になって夢が挫折したシモヤマ・アツヒロと対比されている。 【記事終わり】                                          


貧しいアンダルシアの若者が大きな富と名誉を求めて闘牛士を目指す。名声を得るものは一つまみで、名声を得ても闘牛士は常に死と隣りあわせだ。

中南米の少年が富と名声を求めて大リーグを目指して一流になっても死とは無縁なのとは違う。この死の影が漂う闘牛の世界に日本の若者を駆り立てた動機とは何なのか。                           

闘牛に不案内な僕はコメントする能力はないが、彼が闘牛の世界に入ったのは日本人が目標を喪っていた12年前とすれば、金ではない、何か自分自身を納得させる精神的なよりどころ…無償の名誉…を求めたのだと僕は思う。

その時期に還暦に近かった僕でさえ、何とか環境を変えなければ《俺はダメになる》と悩んでいた時期だから。村上龍が《日本には何でもある、夢と希望を除いては》と喝破した時代だった。                                                        

スペインでもカタルーニャを中心に闘牛反対の動きが強まっているが、その論拠は牛の死を見世物にするのは残酷だというものだ。しかし、もし闘牛で100パーセントマタドールが牛を手際よく屠るのであれば、これほど多くの観衆が集まるだろうか。                    
僕が闘牛を残酷だと思うのは、もしかしたらマタドールが角で殺されるかも知れないという残酷な予感が観衆にあるからではないのか。近代闘牛が確立してからマタドールは3000人以上がコヒーダ(牛の角の引っ掛け)で死んでいる。                                                          

僕はグリーンピースではないので、独りよがりでピント外れの正義を振りかざすつもりはないが、どうしても人間の残酷さを直視しなければならないと思っている。              

洋の東西を問わず地獄絵を見ると、人間は果てしなく残酷なものを想像し創造できる能力を持つことに呆れ驚く。

一方で極楽浄土、アルカディア、ロータスイーターなどの天国の図を見るとあまりにも幼稚で嗤ってしまう。

世を混乱させた廉でマホメッドを地獄に突き落としたダンテも、ベアトリーチェと天国に在る天国編は、地獄編や煉獄編に比べて全く迫力がない。

人間は天国をイメージする能力に欠けるがゆえに、自分の道徳律や社会規範が緩むと、闘牛などは比較にならないまで、際限なく残酷な動物になるのだろう。                                   

僕は闘牛を避けている。僕の中で人間の残忍さを解放したくないからだ。
そして思うのは、村上春樹の小説には読むに耐えないような残忍でグロテスクな描写が出てくる。
人間の残忍さと心の頼りなさは彼の永遠のテーマなのだろうか。


 

Lauburu | スペインで | 19:50 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |

無敵艦隊(Armada Invensible)

 

6月にはサッカーのワールドカップが南アで開催されるが、いわゆるスペインの無敵艦隊は前評判は上々だ。

しかしこの《無敵艦隊》という言葉は成り立ちから考えると、何故スペイン人がこのような言葉を使うのかが不思議だ。


この言葉の始まりは、イギリスのエリザベス1世がイギリスの軍艦がアメリカからのスペインの貴金属の積み荷の奪取を許可したこと、イギリスの政府公認の海賊がスペイン植民地を攻撃したことから、スペインのフェリーペ2世は

130隻からなる艦隊を以てイギリスを討つことを決意したのだった。


勝利の詩を謳うために詩人のロペ・デ・ベガを乗せて艦隊は1588年にリスボンを出航し、針路を北にとって英仏海峡に入った。
そのとき嵐に遭い、一時フランスのカレー港に入り投錨した。イギリス海軍には僕が子供の頃に映画の主人公にもなった海賊のドレークやホーキンスなどの手練れがいて、一方でスペイン海軍の提督は、門閥主義の産物の素人提督のメディナシドニア公爵であった。


ドレークたちはスペイン艦隊を撹乱するために、夜陰に紛れて焼き討ち船8隻を湾内に送り込み、公爵は慌てて錨を上げて出航を命じた結果、嵐は艦隊を分散させイギリス・オランダ艦隊の狙い打ちにあって大損害を蒙って四分五裂となり、西の英仏海峡にも戻れず、命からがら沈没を繰り返しながらスコットランドとアイルランドの北を廻ってリスボンに逃げ帰ることになった。
無敵艦隊は 60隻の艦船と3万人のうちの2万人の水夫を喪った。因みに、イギリスの損害は2万人の内、戦死者は8千人、艦船の損害は軽微だった。



《英仏海峡での海戦》


《無敵艦隊の壊走航路》 
Xのような印は海戦のあったところ。斜めの船は沈没したとろ。

戦いが終わって、波間に翻弄されるスペイン艦隊の残骸を見た皮肉屋のイギリス人が『これぞ正しく無敵艦隊(Invincible Armada)であるわい』とからかったのが、スペイン語に転訛して無敵艦隊(Armada  Invencible)となったのだった。無敵艦隊どころか《初戦惨敗艦隊》であったわけだ。

しかし、後世の歴史家のこの戦いの分析は、計画そのものは拙劣ではなかったこと、スペインに可成りの勝算もあったこと、不幸にも老練なサンタクルス提督の急死で能力のある提督を欠いたことなど、ただ時宜を得なかったことに尽きるようで、敗れたとはいえ「勝敗は時の運」とも云える古き昔へのノスタルジアが、現在のスペインをして、このような言葉を使わせるのは分からないでもない。

航空機全盛の時代に時代錯誤の巨艦主義にこだわった戦艦大和は、悲劇であってもノスタルジアが入り込む余地はないようだ。


 

Lauburu | スペインで | 19:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

ドノスティア(サン・セバスティアン)

 

カンタブリア海の宝石といわれるドノスティアは、街の美しさと気候が温暖なことから200年以上前から高級保養地としての誉れ高いところだ。


ここが乱開発でメチャメチャニなった地中海のコスタ・デル・ソルと違うのは、丁度日本の鎌倉に似て、山と海に挟まれて乱開発をするような土地が少ないこと、開発規制が厳しいこと、外国人と資本が不動産を持つことを禁じているためでもある(僕のピソ:日本でいうマンションも娘婿の名義にせざるを得なかった)。旧市内の東を流れるウルメア川の左岸はスペインで最も住居用不動産価格が高いところでもある。

《高級住宅地》

7月にはジャズ祭、8月にはクラシック祭、9月には映画祭と、昔から文化活動も盛んで、映画祭は今年で57回目となる。


《遠くに文化活動の拠点の音楽堂が見える》

 

また美しい海岸から一段上がった遊歩道の下に更衣室やシャワーを備えて、一般人も歩く遊歩道を水着で歩くことはないので町全体が非常に洗練されて見えるし、もちろん飲食の仮設店舗を開くなどはもってのほかだ。

リゾートで収入を得る街ではなく、人が和み、人が汀で時を過ごせる美しいコンチャ(ホタテの貝殻)湾と砂浜を、小さな2つの半島が抱きかかえている人々が普通に暮らす由緒のある街だ。

そしてバスクの街は何処でも、いつも清掃人が歩き回っているので実に清潔で気持ちがいい。

 

食に関しても、有名な女人禁制美食クラブ(Sociedad gastronomica)発祥の地で100年を越す伝統のあるクラブがあるし、カナッペの原型であるピンチョス(pintxos)発祥の地でもある。このピンチョスの多彩なことは素晴らしく、ビーノのつまみには最高だ。

《名物のピンチョス》


名物のチャングーロ(txangurro)ドノスティア風は、毛蟹の肉に、刻んだニンニク、たまねぎ、にんじん、トマト、西洋ネギ、パセリを炒めて混ぜ、シェリーとブランディーをたっぷりと加え、甲羅に詰めてパン粉を振ってオーブンで焼くもので、涙が出るほど美味しい。

もう一つは、小イカ(txipirones)の墨煮で、胴体の長さが4〜5センチ位のイカ(日本ではホタルイカと訳しているが全く違うもの)に細かく刻んだ脚を詰めて、トマトと玉ねぎとイカ墨で作ったソースで煮込むもので、他のイカとは違う微妙な味がして素晴らしい。

スペインの有名レストランのシェフは殆んどバスク人だというのも、このような伝統からきているのかも知れない。

 

美食クラブは、日本で言えば50〜100人位の社員を持つ会社の社員食堂とほぼ同じ厨房設備をもち、材料は持ち込みで、備品のビーノは実費精算する。後片付けはシンクに洗い物を入れて心づけを置いておけば、翌日、専従の女性が来て洗ってくれる。

またこのクラブは50〜100人分位の木の無骨なテーブルと椅子があるので、一族郎党の集まりに使うのには実に便利だ。男達が腕を奮ってセッセと料理を作って女性達に奉仕しているのは微笑ましい。

このクラブも時の流れで最近では女性の会員も現れており、ついでに日本人の僕はどうかと訊いたら、これはどうも叶わないらしい。ちなみに入会するのには会員2人以上の推薦が必要とのこと。


ドノスティア、オンダリビア、イルンとフランスに向かって並ぶ街は、我々がステレオタイプで考えるスペインの街とは全く違った雰囲気がある。アンダルシアなどの南とは別の国の街という感じがする。これは昔からのスペインバスクとフランスバスクとの分かち難い交流から生まれた《バスク人の街》と云うべきかも知れない。

 

イルンで生まれ育ち教育を受け社会に出る若者が、バスクで仕事のポストの空きがなければバスクの外に出て空きを待ち、やがて戻ってくる(長女の連れ合いも彼の弟も、そのようにしてバスクに戻って来た)。街は小さくても心の故郷を感じさせる大都会に勝る魅力とは何なのか、僕のような異邦人(スペイン滞在時間に比例してこの感覚は強くなる)には答えるのは難しい。

しかし、闘牛にもフラメンコにも全く興味がなく、ただスペインの人情に魅せられてマドリードに住んで、10年以上もスペイン中の都市を走り回ったスペイン人もびっくりの旅行者の僕が、生まれてから大都市東京の山手線の内側にしか住んだことがない僕が、首都マドリードから他でもない地方の小都市のバスクの街イルンに移り住みたい、と思ったことと無関係ではないのだろうと思う。

 

日本でも地方分権という話が出ているが、若者が魅力を感じない地方に自立自治の能力があるのだろうか。

自立自治を守るために中央権力に対抗して、時に血まで流したバスクでは千有余年を超える地道な自立のための努力が必要だったのだから。

 

 

Lauburu | スペインで | 12:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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