2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2011.01.31 Monday
BBCテレビが原爆被災者に対して無作法をやらかしたらしい(僕は見たわけでもないので《らしいと云うのだが》。
以前、朝、ロンドンのホテルでニュースを見ようとテレビを点けたらワイドショーのようなものをやっている。何かなと思って見ていると世界中をセックス行脚した女性がゲストで、自慢話やら聴衆との品のないやりとりやらをしているので呆れかえった。
朝の7時からこんな番組を放映する国のテレビが何をやらかしても、驚きも呆れもしない。
『山高ければ谷深し』と云うが、階級社会の下層階級の蒙昧さが垣間見える。
ではスペインのテレビはというと、昨年から地上ディジタルになって、受信できるチャネルの数は大幅に増えた。
だが番組の中味が濃くなったわけではなく、僕はサッカー中継を見る以外に、スペインの農漁業のポテンシャル(僕にこの国を本当に羨ましがらせる)を毎週土曜日にレポートする番組や、由緒のある街と建物を紹介する番組(これを見るとそこに行く必要性も感じなくなる)のを見る以外にテレビを点けないので、大きなことは云えないが、一応スペインのテレビについての感想を述べてみたい。
主流を占めるスペインのワイドショーのレベルは、日本のそれと堂々と四つ相撲をとれる見事なものだ。
その一例は:
90歳で子供を儲けたフリオ・イグレシアスのお父さん(小柄で軽妙洒脱な人で、彼に仕えた看護婦の話では腕が確かな立派な産婦人科の医師だったという)をマスメディアが散々追い回して一段落したら、奥さんが2人目を懐妊。
マスメディアは欣喜雀躍。
赤子を抱いた若い奥さんは追い回すカメラに向かって激昂し(当然だろう)、フリオのお父さんはマスコミに余命を貪り食われかのように(と僕は思った)心不全で急死してしまった。
多かれ少なかれ、このようなものだ。
日本ではスペイン国営テレビと云われるTVEは、政府が100%株を持つ株式会社なので、コマーシャル(publicidad)のスポンサーを必要とする。
そのためには視聴率稼ぎが必要なので、民放(よりは少しはましだが)とジャンク番組で妍を競っている。
建前として政府はTVEに干渉しないと云っているが、大株主が何も云わないのはあり得ないだろう。
そのためか、良いことなのか悪いことなのか分からないが、昨年からコマーシャル数の削減が行われた。
しかしそれが番組の内容にどのように反映しているのかは僕には未だ明らかではないが。
旧聞に属する話だが、スペインから日本に帰って友人たちと飲みながら話したとき:
『君はKYってなんだか知っているか?』と友人。
『知っているさ、世界で一番のファスナーメーカーだろ』と僕。
『君はYKKと間違えていないか』と云われて大笑いになった。
『イケメンを知っているかい?』と訊かれたとき、僕はラーメン、タンメンの類と思っていたので、これも大笑いの種になった。
これではいかんと、東京に帰ると時流に感覚をアップデートすべくテレビを見ることにした。だがしかし、
安手の芸人同志が馬鹿騒ぎする番組は論外にしても、番組にはコマーシャルが入りまくり(これは日本特有のことだと思う)、いま全盛のワイドショーでは、わけ知り顔の狂言回しが断定的に物を云い、ポピュリズムの権化みたいな並び大名たちが得意顔でニュースを解説するのに幻滅してチャネルを切りかえる。
だが、民放化したNHKも含めてどこも同工異曲だった。
こらえ性のない僕はスイッチをプッツンする。
スポーツからニュースまで、解説されないと物事を確信出来ないほど頭が受け身になったら死人と同じと思うから。
僕は年間約1万円払ってアメリカの大リーグの年間2430試合をインターネットで見ている。ボストンのファンの僕はゲストのデニス・エッカーズリーやノマル・ガルシアパラやデーブ・ロバーツのレッドソックスへの熱い思いを聴くと感動する。
技術解説などは不要なのだ。
初期のMLB放送でNHKの放送に参加した、MLBの文化を愛する福島さんや藤沢さんが懐かしい。
テレビは現代の利器で貴重な情報源であるのは確かだと思う。
しかし、一部のジャンク番組がテレビ局の儲け主義をさらけだしているのだと思うと、その企業体の心性を馬鹿にするのもまた仕方がないことだろう。
大宅壮一氏は50年も前にテレビを称して《一億総白痴化》と云って本質を見抜いていた。
まさか嶋中事件で怯えきったマスメディアが、エロ・グロ・ナンセンスに逃げ込んでいるとは思いたくないが。
そのうち日本もテレビを見る階級と見ない階級に別れるのではないか。
知的支配する階級と、される階級に。
そして支配する側は、愚民政策の先兵としてテレビ有効な媒体として活用するだろう(もう、しているのかも)。
スペインではどの局でも土日祭日はスタッフの大半が休むようで、午前中は子供向けのアニメだけ(人気ものはドラえもん、クレヨンしんちゃん)、午後は映画とスポーツ中継。
オリジナリティーの無さ、土日曜祭日の半休業、映像や音声が一時的に途絶えても知らんぷりのスペイン。
僕は最初、何て遅れているのだと思った。
だが待てよと考え直す。
衆知を集めてジャンク番組を作っている日本より、《テレビなんてこの程度のものさ》と開き直ったようなスペインの方に救いがあるのかも知れないと考えるようになって来た。
2011.01.22 Saturday
スペインでは(イタリアもそうだろうが)地域毎に特産の食材を使った伝統的な郷土料理をもっている。だから、まとめて一本のスペイン料理というものは存在しないようだ。
スペインの人たちは自分たちの食に絶対的な愛着と自信を持っていて、そのプリンシプル:主義信条を曲げず、柔軟性がなく頑迷固陋と思うこともある。
日本に帰ると食事は和、中、朝、インド、タイ、イタリアン、フレンチ…様式が入り交った何でもありだ。プリンシプルなど面倒くさいことは云うことなしで、都合の良いことは何でもとり込んで同化してしまう。
何しろビットーレ・カルパッチョの《赤》を白身魚に置き換えてしまうのだから。
それにしても、スペインを含むヨーロッパ人の《自分が馴染んだ食》へのこだわり、プリンシプルへのこだわりには驚くばかりだ。
そこで、プリンシプルの輪郭がぼやけて不鮮明になった、融通無碍な自分の心性を考え始める。
事業仕分作業のように、プリンシプルに基づいてグランドデザインを描くことなく、ディテールを突っついて何をしようと云うのだろう。
樹木も上手く剪定すれば立派に育つが、下手に剪定すれば枯れてしまう。
目標に追いつけ追い越せの段階では、プリンシプルの不明確さは何でもありなので、かえって邪魔なものがなくメリットだったと思う。
しかしキャッチアップした後で気が付くことは、自分の道を拓く指針となるプリンシプルの不鮮明さが、磁場のない世界に置かれた磁針のように自らを頼りなくしているようだ。何を考えても砂上に楼閣を築いているような感じがしてくる。
律儀、几帳面、誠実、正確…我々は世界に類を見ない美点を持っている。
だが残念ながら、世界のなかでプリンシプルのない(とくに外交と国防の)影が薄い日本を見て、それが自分の鏡に映った姿だと思うと、自分自身、何をしたらよいのかと途方に暮れてしまう。
歴史に残るであろうケネディーもゴルバチョフもサッチャーも確固たるプリンシプル:行動原理を持つがゆえに、一部の人たちからは抹殺してやりたい(された人もいるが)と思われるくらいの《華のある悪》だったのだと思う。
この人たちを生んだ国は、プリンシプルには無縁の、人との摩擦を避ける八方美人が何かの間違いで政治家や経営者になり得た国とはどうも違うようだ。
国家の将来のことを考えなければ、《和を以て貴と為す》国は住みやすいことは事実だ、と僕は思う。
Creo que (我、思うに)のように、いちいち《自己を明徴》にする必要がないのは、都合が悪くなれば、《俺は関係ないと》ととぼけられるし。
この辺にプリンシプル:主義信条、行動原理について、彼我の明らかな違いがあるようだ。
辻邦夫氏がジョセフ・フーシェを地味で善良な書生として描いた『フーシェ革命暦』を読んだときに、伝記作家シュテファン・ツバイクが希代の変節漢として描いた『ジョセフ・フーシェ』と比較して作家によって人物の解釈がこうも違うのかと思ったことがある。
また歌舞伎の『先代萩』では大悪党が定評の原田甲斐が、山本周五郎の『樅の木は残った』では優しい善人に変わってしまっている。
どうも我々は、たとえ華があっても《ワル》は好きではないようだ。
フーシェ:世界で初めて共産党宣言らしきものを書いた男。リヨンの虐殺者。
激動のフランスを人の足を掬いギロチンに送り込みながら泳ぎ切り、最後には世間から見捨てられてトリエステでと自然死した男。
ナポレオンはフーシェをブレインにしたものの、眼を離せば何をしでかすか分からないワルなので、フーシェとは犬猿の仲の育ちの良い僧侶階級出身のワル、タレイランも併せ抱えて、両者を牽制させ、両方の悪知恵だけを吸い取ったと云うのだからナポレオンこそ《偉大な超ワルの華》であろう。
歴史のなかで燦然と輝くはずだ。
そのナポレオンがスペイン征服に夢中になるのに呆れたフーシェとタレイランが突然仲良くダンスを始めたので、慌てたナポレオンはパリに飛んで帰ったという。
フーシェとタレイランの《ワル》ぶりには畏れ入るばかりだ。
だから歴史に名を残した。
むかし銀幕の悪役で名を売ったチャールス・ブロンソンやジェームス・コバーンが、善人役を演じるとヤタラと頼もしく見えたのは悪党の魅力の裏返しなのだろう。
でも、極め付きの悪役ジャック・パランスは善玉役にはならなかった。人相が悪すぎたのかも知れない。
僕はテレビが創作する、歴史上の《プリンシプルのある人物》たちの大河ドラマは見ていない(あまり日本に居ないせいでもあるが)。
安楽椅子に坐って傍観者として見ていると、なんとなく居心地が悪くなる。
『それを見て、君は多少なりとも自分で何かをしようとしているのか。今の日本には人物がいないと他人事のように云うのは恥ずかしいことだよ』、と云う声が聞こえるような気がするから。
《人物の不在は、(優れた)大衆の不在だ》と碩学オルテガは云っている。
かなり前に、僕が後輩にもっと運動した方がいいよとアドバイスしたら、
『大丈夫です!僕は《ターザン》を読んでいますから』という返事が返って来たのでビックリした。
ただの傍観者としてテレビを見るのも、これと大同小異なのだろう。
我々の間では、プリンシプルを持つ人間は悪し様に云われることが多いが、《悪の華でも良い。華のない人間ほど頼りないものはない》ことを、肝に銘じる時期に来ていると僕は思っている。
しかし自分たちだけが清廉で正義だと云わんがばかりに、個人のどうでもよいことを得々とあげつらうマスメディア全盛の今の世の中では、平穏無事にすることが得策で、悪の華が咲く土壌の存在は難しいとも思う。
今のように金棒曳き(たち)《アニタ・エグバーグ主演の映画の厭らしい登場人物をもじってpaparazzo(zzi)と云うらしいが》に満ちている状態は正常なのだろうか。
社会常識をわきまえない野放図な表現の自由が、結局、世論を背景にした東京都の漫画規制条例の引き金を引いてしまった。体制は常に虎視眈々と国民に網をかける機会を狙っているのが分からないのだろうか。
はるか昔、仕事で訪ねたニューヨークで、グランドセントラル駅の隠されたホームを特別に見せてもらったことがあった。車椅子に坐ったローズヴェルト大統領を人眼から避けるためだったという。
日本の降伏は必定で、スターリンとの困難な駆け引きを控えたアメリカの困惑を感じるのには充分だった。
今は国益を考えたこのような配慮は無駄な努力だろうか。
何でも知りたい、だから何でもバラしたいが社会正義とは思えない。そのバランスを取るのが良識なのだと思う。
僕は今の広告の間に記事があるような新聞、コマーシャルを入れまくるテレビなど、胡散臭いマスメディアに携わる人間を懐疑的にみているので、その見方と読み方に細心の注意を払うようにしている。
あるいはテレビを捨て、新聞も取らないという選択肢もあるのかも知れない。
日本語の他に外国語の読解力をつけて、インターネットで複数の国のメディアを探り比較対照して、自分自身のプリンシプルを立ちあげるのもオプションの1つだと思う。
話は脱線するが:
外国語に関して、会話では小学生で英語やスペイン語を話す孫たちの足元にも及ばない。
しかし僕は彼らが読めない本を読解出来る。
会話能力全盛のいま、世界のニュースや文献を読む力も並行して重要視する必要があるとおもう。
僕は学生時代に、アメリカ人で日本語を少し話す青年にジャズ喫茶で出会った。
《シュテゲ》と名乗っていた。
彼はレニー・トリスターノやデーブ・ブルーベックやリー・コニッツのようなウエスト・コースト・ジャズが好きだった。
何度も会っているうちに彼は僕に訊いた。
『カツゥさん、《ムチョウキョウヘンプク》、ドウイウ意味デスカ?』
僕はキョトンとした。
『もし、その字を書けるなら書いて』と云ったら、彼はテーブルの上の勘定書きを裏返して書いた。偏と旁がアンバランスな暗号のような字で。
僕はそれを《無鳥郷蝙蝠》と判読した。
彼は《鳥なき里のコウモリ》を音で読んでいたのだった。
日本語を話すのは拙なかったが、彼は漢籍にまで踏み込んでいたのだ。
そして僕は凄い人だなと思った。
むかし自民党創設の道をつけた裏方の《華のある悪》、『誠心誠意、嘘をつく』三木武吉を懐かしく思うこの頃だ。
しかし嘘はそんなに悪徳なのだろうか。
僕は嘘にはクリミナルな嘘、シンフルな嘘、ファシリテートする嘘があると思う。
クリミナルな嘘は禁じ手の嘘。シンフルな嘘は推奨はされないが時には(オー・ヘンリーやグレアム・グリーン的な)やむを得ない嘘。ファシリテートする嘘は世の中を円滑に回すために絶対に必要な嘘。
人間は人生と云う舞台で演技する存在で、上手な嘘をつける人間は名優になり、下手な嘘しかつけない人間は大根役者で終わる。単純な事実だと思う。
もし、ある程度の地位を得た人が《生涯正直に生きて来た》と云ったら、多分僕は嘘つきだと思うだろう。
最近はスケールの大きな上手な嘘をつける人も、それを高度な知的遊戯と受け入れる人も少なくなった。僕は思わず鏡で自分の《顔》を見る。
十把一絡げに、嘘を全て否定するのは賢いこととは思えない。
もし男がみんな志位さん的になり、女がみんな福島さん的になったら世の中は絶対にぶっ壊れるだろう。
とは云っても心配することもないのかも知れない。
むかしマーロン・ブランド監督主演の《片目のジャック》という映画があった。
トランプのジャックが見せる綺麗な横顔の裏には、薄汚れたもう一つの横顔があるというのがモチーフだった。