2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2011.02.18 Friday
恒例の僅ばかりの確定申告も終わったし、海や山の香りも恋しくなったので、そろそろイルンに戻る時期が来たようだ。
味覚に関して日本の晩秋から冬にかけての魚は世界一だとつくづく思う。
秋刀魚から始まって鮟鱇、鰤、金目、鱈の菊子。こんな味覚は我が大和の国を離れたら絶対に味わえない。
だが、日本に戻って何時も寂しく思うのは、言葉が違うイルンに居るよりも人間と人間の間に隙間風が吹くような感じがすることだ。どうも連帯感が感じられない。
イルンでは人々の心の繋がりを何時も感じるのだが、日本ではそれが感じられない。
何故なのだろうと思う。
イルンではダウン症の子供を親が連れて散歩するのを良く見かける。彼らと会うと人たちは、『何て可愛いの!』、と云って抱きしめたり頬擦りしたりする。
社会全体が彼らを支えるのだという意思表示が感じられるし、親も心強いだろう。
このような光景は残念ながら日本では殆ど見受けられない。
この社会構造の違いは何に起因するのだろうか。
僕が小学校に入る前の敗戦も間近の頃、東京都芝区に住んでいたときのことだった。
一人の女性を数人の女性が取り囲んでいじめていた。どんなに泣いて謝っても赦さないようだった。
僕はそれを木の電信柱の影から恐怖に駆られて見ていた。
家に帰って様子がおかしいのに気づいた母に訊かれたので仔細を話したら、母は《また隣組ね》とポツンと云った。
社会全体が少しの異端も赦さないという官製相互監視機構の隣組。自分たちで自分たちの首を絞めて社会を暗くしていた時代だったのだ。
その後、中学3年のときのことだった。詳細は忘れたが、ある雑誌で《人が消えた》という記事を読んだ。
ナチドイツに包囲されて900日間の兵糧攻めに苦しんだレニングラード市民の苦闘の話だった。冬将軍が援軍に来るまで耐えようと、市民が全員で音楽会を開こうと計画したが、楽師はお腹に力が入らないのでラッパなんか吹けないという。しかし皆で励まし合おうという熱意で一丸になって何とか開催に漕ぎつけた。
市民たちは三々五々会場に集まって来たが、その時包囲するナチドイツ軍からの迫撃砲が落ちて市民の何人かは《消えてしまった》。
にもかかわらず、市民の熱意で音楽会は成功裏に終わった。
僕はこれを読んだ時、土壇場に追い込まれたときの人間の心のありようのあまりの違いに驚いた。隣組の経験と対比して何という違いなのかと。
ことが逆風になると、国民全部が悲壮振るのは今も昔も同じなのかもしれない。
これは下降スパイラルに入ると、復元力がなくなる危険性をはらんでいる。
猜疑心が強く粛清を繰り返した冷酷な独裁者スターリンの時代でさえ、ソ連では市民が団結して音楽会を開けた。
もし当時、日本でこんなことを云いだす人間がいたら、この期に及んで音楽会のような軟弱なものを計画するのは非国民だと、特高に引っ張られて生きて帰れたかどうか分からない。
あのムッソリーニでさえ、権力誇示欲があるくにしても斬新なニューローマ市を残しているし、才能のある芸術家を起用して公共施設を作っている。
戦争中に軍国主義者は文化的な何物も残していない。しかし、これは軍国主義者だけの問題なのだろうか。
その後、社会に出て比較的大規模な企業に勤め始めたときに、また違和感が募ることが多かった。
それは、そのグループ員だけが使える施設:街中には会食歓談が出来る施設、郊外にはテニスや水泳やソフトボールなどが出来る施設、保養地には宿泊施設があった。
収入も少ない若い人たちへの福祉施設ならまだ分かる。しかし上級管理職が利用するのはあまりにもみっともないと思っていた。
まして企業内のハイアラーキーまで持ち込まれる世界などはおぞましい以外の何ものでもない。
僕はこれらを、《一般社会》とは関係のない《企業租界》と感じて殆ど利用しなかったし、OB会にも入らなかったので今は利用資格を持っていない。
多くの大組織がこのような《企業租界》を作り、それを利用出来る特権に何の違和感を持たない人たちが多いのが僕には不思議で仕方がない。
《企業租界》=《社会》という概念の下では、皆が連帯感を持つ健全な市民社会は発展のしようがないだろう。
僕は《日本人特殊論》には賛成しないが、日本が先進国のなかで市民の社会的連帯の概念が特異なのは事実だと思う。