2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2011.04.26 Tuesday
スペイン版ゴールデン・ウィークで、900万人以上が移動するキリストの受難を悼む聖週間(受難週)は今年は4月17日から23日までの1週間だ。
テレビで見るアンダルシアのセビージャの祭典は、僕のようないい加減な多神論者には異様と感じられるほどの盛り上がりを見せる。
雨模様の天気の下で茨の冠を被り重い十字架を担いで道行くもの、自分の背中に鞭打ちながら苦悶の表情で道行くもの。しかし北国のバスクではあまり盛大な祭典はなく、むしろあまり関係がないようにも見える。
しかし、セビージャのこの式典での主役はキリストではない。聖母マリアなのだ。
聖なる木曜日の深夜から聖なる金曜日の明け方まで、選ばれた名誉ある男達が担ぐ何とも《艶っぽい》マリア像を乗せた山車が十数台練り歩く。
そしてその山車は、米国の無知蒙昧なKKKがそっくり盗用した衣装を着けたコフラディア(信心会員)が取り巻いている。まるで聖母の《艶っぽさ》コンテストのようだ。
山車に向かって歌われる、これは日本の追分ではないかと錯覚するような《サエタ》という哀愁を帯びたアンダルシア地方の宗教歌を聴いて、路傍の婦人達は感極まって涙を流している。
ロウソクの光に金色に輝く装飾が山車の進行とともに揺れ動くさまと、建物の上から舞い散る金色の紙吹雪のようすは何か幽玄で現実離れしている。
僕はカトリックには縁のない人間なので良く分からないが、あまり世界に類を見ない南スペインの聖母マリア信仰は何時から、どのような理由で始まったのであろうか。
豊穣の大地に感謝する原始地母信仰と、聖母マリアが結びついたという説もあるが、この聖母信仰はスペインの保守的な旧い殻を理解する興味ある鍵なのかも知れない。
面白いことにスペインの隣のフランスでは、聖週間の翌週の復活祭(Pascua:今年は4月24日から30日まで)を祝う。聖週間はスペインの商店は休みなので、スペイン人は必要があれば川を渡ってフランスに買い物に行き、復活祭にはフランス人がスペインに買い物に来る。
さて信仰心薄き僕は、この聖週間のお祭り気分に便乗してサン・セバスティアンに食べ歩きに行くことにした。
行く先はピンチョスのメッカ…
1813年のサン・セバスティアンへのナポレオン軍の侵略をスペイン軍が押し返した戦いの後に、こともあろうにスペインを助けに来たはずの同盟軍、ウェリントン公爵旗下のイギリス・ポルトガル軍の略奪と放火によって1週間も燃え続けた後、8月 31日に同盟軍の将校の宿舎になっていたので、かろうじて焼け残った猫の額のような旧市街に行こう(地図の青いサークル)。
先ずはウォーミングアップとしてバルへ
《ピンチョス》
続いてはボデゴン・アレハンドロへ昼食に
《キノコの卵とじ》
キノコはシシャ(xixa)というあまり市場では見かけない高価なもので、大きさと形はナメコと同じだが、色は白でヌメリはなく歯ごたえのある独特の食感がある。
《ソラマメと牛の頬肉のソテー》
今が旬のソラマメで大きさは日本のものよりも可なり小さいのが一般的だ。
《チュレータ(ステーキ)》
《リンゴ・ケーキ》
お腹がはち切れそうになって今日はこれで終了。
2011.04.19 Tuesday
サン・セバスティアンはスペインの人が住みたがる美しい街だが、ツアーに組み込まれるような有名なモニュメントが無いので、日本でこの街を知る人は少ない。
《バスク地方の食の旅》のようなツアーがあっても良いと思うのだが。
僕はカンタブリア海に面したビルバオ、サン・セバスティアン、オンダリビア、イルンが好きでバスク地方に住んでいるのだが、今日はオンダリビアに行ってみよう。
肌寒い気候から一気に初夏のような快い季節になったので、我が家から自転車でオンダリビアに行くことにした。僅か20分しかかからないが、車と一緒の道を走らなければならないのでエンダヤほど頻繁には行かないのだが。
オンダリビアは昔からチングーディの入り江の対岸にあるフランスを意識して、10世紀にはナバラ王のサンチョが城砦を築き、16世紀にはカルロス1世がそれを補強している。これが今はパラドールになっている。
《対岸のエンダヤから見た旧市街》
中央のサンタ・マリア教会の右方の木立の右奥がパラドールで、外観は冷たい感じだが内部は非常に雰囲気のある素晴らしいパラドールだ。
オンダリビアは元々は漁師町だったものが近年は海辺のリゾートとして急発展し、夏のハイシーズンには人や車でごった返し、商品の値札の数字は驚くほど大きくなる。昔から此処に住んでいる人には有り難くない話だと思うのだが。
《対岸のエンダヤから見たリゾート・マンション群》
旧市内の右手には沢山の白いリゾート・マンションが立ち並んでいる(手前の防波堤のようなものはサン・セバスティアン空港の滑走路)。
確かに魅力的な海辺の街だが、矢張り僕は旧市街のほうに魅力を感じるので、今日は旧市街を散歩しよう。
お気に入りの最も旧い街並みは、何時ものようにカルロス1世の紋章が迎えてくれる。
擦り減った石畳の坂道を上る。
途中には古色蒼然とした市役所があり、
その斜め前には、今売り出し中のレストラン・セバスチアンがある。
僕はここに一度だけ行ったことがあるが、内装が古風で雰囲気があり料理も大変美味しかった。
さらに坂を上がるとパラドールに着く。何か歴戦のつわものを彷彿させる佇まいで、ファサードには弾痕が至るところに見受けられる。
パラドールの前の広場からはチングーディの入り江が一望出きるが、対岸のエンダヤから見るのとは可なり雰囲気が違う。
自転車に乗って坂を下り海岸の方に行ってみよう。
石畳の坂を下りたところにオンダリビアで評判のレストラン・アラメダがある。レストラン・セバスチアンとは打って変わって明るい近代的なつくりだ。
厨房にはバスク料理を勉強に来た日本の若者が絶えず入っているという。
海岸通りに出てみよう。
まだハイシーズンではないので人出は少ないようだ。ごった返さない限り、オンダリビアの海もまた捨て難い。
2011.04.12 Tuesday
先日サン・セバスティアンの料理クラブ(Sociedad Gastronómica)で会費50ユーロで震災チャリティーの集いがあった。
サン・セバスティアンで和食店を経営する方が厨房を差配して日本の女性たちが手伝い、スペインの人たちが胸に日の丸を模したハートとJAPÓNの揃いのTシャツを着てテーブルをアテンドした。
優に100人以上の人が参加して、アサリとムール貝の味噌汁、鰹のタタキ、手巻き寿司、メルルーサのソテー、ステーキなどを楽しみながらの歓談だった。
日本から遥かに離れたサン・セバスティアンで、先日はチャリティー音楽会が催されたばかりなので感謝するばかりだ。
この日は時々霧雨が降る天気で、美しいコンチャ湾は少し寂しげだった。
世界は日本国民の大災害対応を絶賛した。しかし最近は日本政府の無能さを批判する論調に変わってきた。
何故優秀な国民が無能な政治家しか持てないのか。
少なくとも日本では、一般常識として政治の世界は汚いものだという感覚がある。だから優秀な人間ほど政治から離れる傾向がある。
これは国民が考えなければならない大問題だとおもう。
西欧では政府や企業の施策に反対であれば、国民はデモやストで意思表示をするが、しかし日本では勤勉で温和な国民が耐えてしまう。
だから政治家や企業家は無能でも何とかやってゆける。国民の優秀さとリーダーの質の低下は裏腹な問題と理解しなければならないのだろう。
日本のアマチュアがゴルフのマスターズでベストアマになるという快挙を成し遂げた。彼には参加を自粛しろというメールもかなりあったという。いま日本人は世界の何処に居ようとも、自分の持つ力を最大限に発揮するのが大切だと思う。
為すべき何物も持たない人間が、持つ人間を自粛の名の下に自分と同じ無能レベルに引下げようとする行為は侘しい。
2011.04.08 Friday
イルンから近郊列車でドノスティア(サン・セバスティアン)に向かって約10分でパサイヤに到着する。
ここはカンタブリア海が複雑に深く内陸に切れ込んだパサイア湾があるところで天然の良港になっている。
入り江の奥には貨物船と漁船の埠頭があって、錆びた金属や石炭の山が点在して魚の生臭い臭いも充満している殺伐としたところだ。
国鉄のパサイア駅から湾の東側をおよそ1時間くらい歩くと、湾がカンタブリア海に繋がる地区に着き、ここにパサイ・ドニバネ地区がある。
そこは山裾にへばり付いたような、小径の両側に一列の住宅が並ぶだけの辺鄙な旧い集落で、あまり人目には付かないが、偶然、ビクトル・ユーゴーの記念館があるということを知ったので訪ねてみたのだった。
《海辺のパサイ・ドニバネ:対岸のサン・ペドロとは渡し舟(0.6ユーロ)がある》
《パサイアの小径》
この記念館のことの起こりは、1843年に41歳のユーゴーはバスク地方への長い旅行をして、パサイ・ドニバネでは典型的な17世紀の漁師の家であるバスケス夫人の家に7日間滞在した。ユーゴーにとってはパサイアは何から何まで新奇な驚きであったようだ。
このときの彼の印象は死後に出版された《アルプスとピレネー》でまとめらているという。その後、1902年のユーゴ生誕100年のとき、ある時期サン・セバスティアンに住んだフランスを追放された詩人ポール・デロルードが、バスケス夫人の家のユーゴーが使った部屋を手に入れて、当時使われた僅かな家具とユーゴの私物を加えて復元して小さな博物館を造った。同じ年の8月14日に地域の名士数人と、詩人フランソア・コペーとデロルードが出席して開会式が行われた。
近隣諸国からの特別招待者のなかの報道記者によれば、この祭典はダンスもあり、ドノスティアのバリトンのイグナシオ・タブージョの歌もあり、オペラのリュイ・ブラスのロマンセもあり、ユーゴの詩の朗誦もありの、簡素だが感動的なものであったという。 現在、この記念館は各種の文化的な目的に使われている。
《ユーゴ記念館の玄関》
《湾に面したサロン》
《寝室:家具はオークションで当時のものを手に入れた》
《バルコニーからの眺め》
確かに湾に面した家で魅力はあるが、今でさえ何もない辺鄙な集落なので、ユーゴーが滞在した170年前はどのようなものだったのだろうか。
彼のような創作活動をする人は、ここで何かの霊感を得られるのだろうか。
僕のような凡俗は3日も居れば、何をして良いのか途方に暮れるだろうなと思いつつサロンを眺め回すと壁にユーゴーが残した文章があった。
海のみぎわでまどろむと
よろずの音が
鼓膜を揺すり愛撫する
波のうえを走る風の音
岩を打つ波の音
夢うつつに聞く
船乗りたちの遠い唄声。
ビクトル・ユーゴー、パサイア、1843年
都会のネオンと車の騒音に馴染んだ僕とは、感性が全く違うのは明らかだ。
2011.04.06 Wednesday
僕はリスボンには4回行ったことがあるが、それは海に近いダウンタウンのバルコニーや手すりに代表される大昔のプレファブ建築に興味があったからだ。 大震災後の復興に世界で最初のプレファブ工法を採用した、時の首相ボンパル侯爵の構想を見るためだった。
1775年の推定マグニチュードM8,5のリスボン地震は、リスボンを中心に大きな被害を出して約60,000人の死者がでたという。リスボンは地震の後、津波と火災によりほぼ全滅したが、当時、首相だったポンバル侯爵は、リスボンの再建を一気に推進した。 当時の記録ではリスボンの中心部には5m幅の亀裂ができて多くの建物が崩壊した。リスボン市民は港の近くの空き地に集まったが、地震から約40分後に津波が押し寄せて港や市街地を一掃し、津波はさらに2回市街地に押し寄せたという。
津波に会わなかった市街地では火災がおこり5日間でリスボンは全焼した。
首相のポンバル侯爵は地震直後、直ぐに建築家や技術者を集めて復興にあたり 1年以内にリスボンは至るところで建設が始まった。 当時、ポンパルの指揮下で建てられたポンバル様式建築は、斬新な世界最初の耐震建築でもあり工期の短いプレファブ建築でもあった。
災害で一切が無になった人は、それがどのような人物であれ首相が被災地に訪れれば、藁をも掴む気持ちで歓迎し期待するのが普通だろうと思う。 しかし今の首相には《何しに来たの》という程度だったらしい。このような首相は世界史の中でも稀ではないのだろうか。 いま被災者が求めているのは、清談の徒や竹林の七賢人を集めた戦略会議のような観念的なものではなく、用地取得、都市計画、景観計画、上下水道、資材運搬、建設の実績のある実務家を集めて、新たな街づくりの具体的計画の青図を作って一刻も早く示すことだと思う。
ポンバル侯爵が200年以上も前に行っていることでもあるし。
1775年:リスボン地震、推定M8,5
2007年:ラマンチャ地震、M5,1:アルマグロに建物の被害が出た。
100年毎に大きな地震が起きています。
2011.04.04 Monday
5月に入れば電力需要も低くなるので東京に戻ることにした。夏場には冷房需要が多くなるので迷惑がかからないようにイルンに戻ることにして。
僕は5月に東京に帰る積りで航空会社の運行計画をずっと調べていた。
ヨーロッパの大半の航空会社は原発事故の影響で運行計画を変更して、成田ではなく関空や名古屋に到着地を変更したり、成田に着くのは変更しないがソウルで水や食料などの機材の補充をすることにしていた。
いまは全ての航空会社が運行計画を元に戻したが、この中でエールフランスだけが一貫して通常通りの運行をしていた。
僕は原発大国のフランスは原子力利用のために、政府の下に強力なシンクタンクを持っているのを思い出した。彼らは乏しいデータを分析して原発の影響度を見抜いていたのではないか。
それ以来、僕はエールフランスのホームページでパリと成田の運行計画を何時も見ている。このほうが政府や東電の好い加減な発表よりも、我々が首都圏に住む可否の判断材料としては確かだと思うから。
インターネットで原発事故のニュースを調べていると、原子力安全保安院は何も役に立たない存在だと分かった。調べてみると矢張り《天下り》の受け皿だった。
僕は昔から《天下り》という言葉をマスコミが使うのか不思議だった。
《天下り》族が渡りで退職金を何度も受け取るというような、経済的側面だけを面白おかしく茶化しているだけだ。
《天下り》の本質は退職して家に引っ込んだときに、家事や買い物は何も出来ないので連れ合いに厄介もの呼ばわりされる。だが《天下り》先に行けば往復は運転手つきの黒塗りで所属先では下にも置かぬ扱い。体調が悪い老人にはナースまで付けてくれる。家で粗大ゴミ扱いされるのとは雲泥の差だ。
だから僕は彼らを《天下り》とは云わずに《下卑下り》と呼んでいる。