2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2011.06.01 Wednesday
誰が考えてもこの対比は何だろうと思うに違いない。
僕はドン・キホーテとアメリカン・ハードボイルドを読むとき、何時も頭に浮かぶのは、日本では封印されている昔の中国の思想、《知行合一》だった。
外側から日本を見ると、僕は我々草の根の誠実さ勤勉さ几帳面さは世界に誇り得る特質だと誇りに思う。
しかし政財界の指導者は周囲の雰囲気を読むことに汲々として本音を隠し、空疎なレトリックで本質を逸らせてしまうことで世界の信頼を失い、この特質を無にしてしまうのは何時に始まったことだろう。本当に悔しいし残念だ。
緊急事態になると右翼も左翼も指導者が思考停止してしまう口先集団であることを露呈してしまう。
しかし国民は耐える。
こんな時代には《知行合一》を懐かしく思い出すのは僕だけではないだろうと思う。
しかし、日本では《知行合一》を歪曲した政治テロ集団が《一人一殺:この気持ちの悪い言葉を僕はイチニンイッサツと読んでいるのだが》を手前勝手な世直しのテーゼとして利用した暗い過去と現在があるので、黒い思想として抹殺されてしまったのは残念なことだ。
小説《ドン・キホーテ》を、延々とナメクジの歩みのように読み進めて何年になるのだろうか…。
立て板に水ならぬ、斜め板に水飴のように読み進むうちに、僕はセルバンテスを近代文学の嚆矢となすという評価の確かさを実感するようになってきた。
またセルバンテスの文学的構成なくして、アメリカン・ハードボイルド文学は存在しないのでないかと思い始めた。
キホーテはフランドルか乗り込んで来たハプスブルグ家のカルロス1世(カール5世)が、ヨーロッパの覇権を手にするために、スペインの富を湯水のように使うという不条理に立ち向かう英雄で、これほど誤解されている人物も珍しい。
僕にも人を評して《ドン・キホーテ的人物》なる軽薄な惹句を得意げに使っていた無知な時代があったが。
風車を怪物と見立てて突っ込む。カルロスが奨励する北ヨーロッパの風車がスペインで何の役に立つのか、カルロスの理不尽の象徴なのに。
キホーテは敵軍と勘違いして羊の群れに突っ込む。手厚い保護を受け、田畑を荒廃させる羊の移牧へのスペイン農民の怨念を代弁しているだけなのに。
そして怒りの暴発のあとは、従者のサンチョ・パンサを聞き手に自分の行動の根拠と反省を冷酷なまでの分析をする。
この恐ろしいまでの人間の行動と心理の分析力がセルバンテスの真髄なのだろう。
ミュージカル《ラ・マンチャの男》で主人公は語る:
『狂気とは何だろう?
現実だけに目を向けて夢を持たないのも狂気かもしれない。
夢だけ追って現実を無視するのも狂気かも知れない。
だが、とりわけ最も忌み嫌うべき狂気は、現実の人生に妥協して、
あるべき姿のために戦わないことだ』
いま僕は理想主義者ドン・キホーテと呼ばれたら感激するだろう。
アメリカン・ハードボイルドが少し違うのは受け手のサンチョは存在せず、主人公だけで思考を再整理するのだが、自分の行動を見つめて思考を整理する基本は同じだと思う。
《俺が正義だ》などと主人公に云わせるミッキー・スピレーンやハードリー・チェイスなど所詮は忘れ去られる《もどき》に過ぎない。
セルバンテスなくしてはハメットのサム・スペードもチャンドラーのフィリップ・マーロウも生まれなかっただろう。
徒手空拳で権力に立ち向かう《実際には存在し得ない》幻の英雄たち。
アルゼンチンの名優、ホセ・マリア・ラングライスが演じた初めてのスペイン語版《ラマンチャの男》が南米で公演されたときの主題歌《不可能な夢》---日本の題名「見果てぬ夢」は日本人のセンチ好みに合わせた意図的誤訳だと思う---の中でドン・キホーテを謳う印象的な歌詞は:
『信念を持って不可能なことを夢見る(Con fe,lo imposible soñar)、あの遠い星に届こうというのが我が想いなのだ(Es mi ideal,la estrella alcanzar)』
僕にはこの歌詞と、レイモンド・チャンドラーの差し迫った死を予感させる遺作プレイバックの最終章に出てくるマーロウの科白が重なる:
『しっかりしてなければ生きてゆけません(Si no fuera duro, no podría estar vivo .)、しかし優しくなければ生きている意味がありません(Si no pudiera ser dulce,no merecería estar vivo)』:【僕の拙い英文西訳では気分が出ませんね。やっぱり原文が良いでしょう:If I wasn’t hard, I wouldn’t be alive. If I couldn’t be gentle,I wouldn’t deserve to be alive】
共通する《生き延びるに難しい》理想主義。
セルバンテスは徴税吏時代に税金の横領の廉で長年獄中に繋がれた不幸な人生を経験した人。チャンドラーは20歳以上年上の妻シシーに励まされて石油会社の共同経営者から作家になったが、精神的支えの最愛の妻の死でアルコール依存症になって、先輩のアルコール依存症作家フランシス・スコット・フィッツジェラルドを慕いつつ、どうにか立ち直ったという辛酸をなめた人。
僕はハードボイルド小説とは、人生をぎりぎり、やっと生き延びている人間の、やるせない思考の狭間から生まれる、満たされない己の理想像を搾り出す貴重な創作だと思う。だから、いわゆる《御立派》な人には理解不能なものなのだろう。
日本でハードボイルド小説を書けるのは、けち臭い自惚れに凝り固まった無邪気なエリート気取りの愚かさを嗤いながら、虚弱な身体と闘い続け、負けてはいけない人間が敗れてゆく厳しさを描く、敬愛する結城昌治氏しか思い浮かばないのだが。