2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2011.07.27 Wednesday
7月のバスク地方はジャズ・フェスティバルの季節だった。
ゲチョ(1〜5日)、ビトリア(10〜16日)、サン・セバスティアン(21〜25日)と続き、
アメリカからもB.B.キングやブランフォード・マルサリスを筆頭に10人を超す実力派が参加した。
昔、ジャズという言葉が僕の頭にイメージさせたのは、《紙屑を木枯らしが戸口に吹き寄せる地下の薄暗いクラブ》、《たちこめる紫煙》、《ウィスキーの臭い》、という雰囲気で、これを《ファンキー:funky》と云ったらしい。
しかし近年のジャズ・フェスティバルは、これとは趣を異にしている。
米国のロードアイランド州のニューポート(州都プロビデンスの南の海に点在する無数の小島に豪邸が一軒づつ建っていて、これが《Great Gatsby》の世界かなと想像してしまう)。
モンタレー(サン・フランシスコから南に車で1時間のところで、隣のカーメルと共にアートに造詣が深い人たちがコロニーを作っている。海に面した崖に立つ松の木を見てドライブすると川奈を走っているのかなと錯覚してしまう)。
スイスのレマン湖の畔のモントルー(今年はマイルス・デイビス没後20年のイベントが催された)。
そしてカンタブリア海に面したサン・セバスティアンと水辺の美しい街で、心地の良い涼しい風が吹き渡る夏の夜に行われる。
旧市街で赤葡萄酒をお供に名物のピンチョスを堪能してから、僕はその近くに流れるウルメア河畔のベンチに坐って、夕暮れから始まる演奏を待ちながら遠くに見える音楽堂を眺めて、ジャズとの長い付き合いを思い出していた。
遥か昔には、まさかスペインのバスク地方に住むことも、ましてジャズ・フェスティバルに出会うとは考えもしなかったことだった。
僕がアメリカのジャズ音楽に初めて出会ったのは、敗戦後間もない小学校の3年の頃だった。
歳のかなり違う兄が、《進駐軍》のアメリカ兵が持ち込んだレコードを貰ってきたときのことだ。
レコードは黒いエボナイトのものしか知らなかった僕は、カラフルで曲げても割れないレコードを見て奇跡の産物のように思えたのだった。
『アメリカはすっげーなぁ〜』と。
旧式の蓄音機と鉄針がないので《竹針》でアル・ジョルソンの口笛入りの《スワニー》を聞いた時、僕は本当にびっくりした。何でこんな音楽があるのかと。
ビックス・バイダーベック、ベニー・グッドマン、ジギー・エルマン、ウディー・ハーマン、…どれも聞き慣れない珍しいものだった。
そして極めつけはレスター・ヤングの《Lester leaps in》だった。
一気に僕の感性のなかに入り込んだ豪放なテナーサックスの音が、いままでラジオにかじりついて聞いていた広沢虎造の浪曲《清水の次郎長伝》シリーズを抛り投げさせたのだった。
彼の《森の石松、閻魔堂の騙し打ち》などは遠い霞のかかった世界に消えて行った。
北鮮軍と中共義勇軍の韓国への侵略戦争が始まると、アメリカ軍に徴兵された
ジャズマンのハンプトン・ホースやJ.C.ハードが日本に駐留したので、彼らの演奏をラジオで聞く機会もあった。
ドラマーのJ.C.ハードの肉感的なボーカル、《プリテンド》が印象的だったのを記憶している…『プリテンダァ〜アッピイ ホェンニャア〜ブルー』が子供の僕の耳に残るイントロだった。
この時期にはレッドソックスの至宝のテッド・ウィリアムズも日本に戦闘機のパイロットとして駐留していて、僕をボストンの熱烈はファンに引きずり込んだのだった。
10歳の頃だったと思う。
その後しばらくして、高価だったが徐々にジャズレコードも手に入るようになったし、ステレオ・プレーヤーも出てきた。ダウン・ビート誌やメトロノーム誌を渋谷の大盛堂で買って兄の辞書を引き引き夢中になって読んでいた。
高校2年のときにVOAがジャズプログラムを放送し始めたのを知り、アメリカ大使館に行ってVOAのプログラムを貰ってから、乏しい貯金を割いて短波放送の受信機を買ってきた。
深夜に短波をキャッチするのだが、待ち受け受信機能のない安物の受信機では本当に難しかった。
受信した!
デューク・エリントンの《A列車で行こう》が鳴り響き、続いてバリトンの優しい声が《Time for jazz , This is Willis Conover…》
カノヴァー氏の声に初めて出会ったのだった。17歳のときだった。
その頃、学園祭のときに講堂から《There will never be another you》の素晴らしいピアノソロが聞こえてきたので、講堂に入ると中学生らしい生徒が弾いている。
『彼は誰』と訊いたら、『ヤマシタ ヨースケ』って云うんだという答えが返ってきた。
進学してからはVOAを聞きながら、ジャズ喫茶の『デュエット』や『木馬』には良く通ったものだった。
その頃、ラジオ東京で吉村アナウンサー(記憶違いでなければ)という人がジョッキーするマニアックなジャズ番組は欠かさず聞いていた(土曜日の午後3時頃だったと記憶しているのだが)。
かなり息の長い番組だったが、打ち切りの時の最後の挨拶をした吉村アナの声が泣いていたのは今でも覚えている。
社会に出る頃になってジャズ界は変貌し始めた。
既成のジャズのマンネリ化、堂々巡りに挑むかのように、《来るべきジャズの姿》としてフュージョンとかクロスオーバーなどが主流になってきた。
《来るべきジャズの姿:The shape of jazz to come》とは…
全くの私見だが、米国での公民権運動の進展につれて、ジャズ音楽の《怒りのやりばのない反抗精神》が礼儀正しくなって行ったのではないかと思う。不公平なものへの抵抗感は薄れて:一見アバンギャルドに思えても。
僕は本来ジャズの存在価値は、極限まで人間性を無視された人間の魂の怨念の表現だと思う。だから僕にジャズとの付き合いは、まだまだ浅薄なものだと自覚している。未だにブルースは心の琴線を鳴らさないから。
だが僕の理解が上滑りではあっても、ビリー・ホリデイの絶唱、《奇妙な果物(strange fruits)》の歌詞に人間の耐え難い屈辱を感じて僕は吐き気を催した。
…Black bodies swinging in southern breeze. Strange fruit hanging from the poplar
trees…
公民権運動が進展しても、ジャズマンの一部はアメリカでは癒えることのない屈辱感を、比較的偏見のないヨーロッパ、パリやストックホルムで癒そうと思ったのも、むべなるかなと思う。
そして今はバスクのサン・セバスティアンで僕はジャズを聴く。このジャズ・フェスティバルも1966年以来46回を数えている。
ジャズの変革期の、マンネリを突き抜けようとするその音楽性に僕の身体は共振しなかった、そしてまた、結婚して子供も出来て身の回りが慌ただしくなったので徐々にジャズから離れていった。
時が経って40歳代の半ばになって身の回りが落ち着き始めたとき、たまたま往年のテナーサックス奏者デクスター・ゴードン主演の映画《ラウンド・ミッドナイト》が上演された。
パリ時代のバド・パウエルの人生を下敷きにしたもので、この映画のデクスター・ゴードンの《ワイシャツの襟のひん曲がり方から歩き方》まで、まさにジャズだった。僕が好きだった頃の。
映画の帰りに僕は突然VOAを聞きたくなったので、電器店に飛び込んで、ソニーのの待ち受け受信機能付き短波ラジオ《Voice of Japan》を購入した。
マニュアルを見てVOAの電波をインプットして待つことしばし…
懐かしい《A列車で行こう》に続いて《Time for jazz , This is Willis Conover…》
何と30年経ってもカノヴァー氏の温かみのある声は変わっていなかった。
それからもVOAを聞き続けた。
旧共産圏も含めた世界中のジャズファンを魅了したカノヴァー氏のジョッキーは、1995年に
40年の歴史を閉じた。
数ヶ月後に氏は肺ガンで75年の生涯を終えたというニュースが新聞に載った。
僕に米語を教えてくれたレイモンド・チャンドラーの訃報を聞いた時以来の喪失感があった。
あとで読んだのだが1995年5月19日付けのニューヨークタイムズは死亡通知のなかで、『共産主義と自由主義の長い苦闘のなかで、氏の声はB29の編隊よりも効果的であった』と伝えていた。
さて7時になっても明るい中で、サブ会場ではアリゾナ州ツーソン市の市民音楽学院のジャズバンド(Tucson Jazz Institute Ellington Band)の演奏が始まった。
若いミュージシャンが演奏する曲はどれも懐かしくて、熱狂はしないが、周りの人たちと共に感覚が共鳴した。
だがジャズ・ジャンキーは『コーニー(corny:陳腐)だぜ!』と馬鹿にするかもしれない。
だが、どうでも良いことだ。
メイン会場で演奏が始まったのは、汀は日が暮れているのに、空には未だ陽の名残がある9時半だった。
B.B.キングのギターの弾き語りだったが、残念ながら僕は彼と感動を共有出来なかった。
彼の血の流れにあるブルースは、僕の感性には引っかからないから。
2011.07.17 Sunday
日本は電力不足のうえに猛暑で生活が厳しいという。一方でイルンは曇天だと肌寒く、好天だと高原にいる爽やかさだ。
しかし僕はこの厳しい時期に日本を離れていることに、少しも心理的引け目は感じてはいない。
18年前からの予定の行動だったから。
40歳半ばを過ぎた頃から、僕は将来子供たちが成長したら新しい自分の世界を見つけたいと思っていた。
1993年にマドリードのマンションを買ったのも、何か新しい生きる楽しみを見つけたかったからだった。
勿論、誰だって祖国には愛着はある。原発事故は他国から侵略されて国土を取られたのと同じ意味を持つことを今回痛感した。
航空機や列車や自動車の事故とは次元が違う危険があり、リスクを考慮しないコストパフォーマンスで割り切ることが許されない問題がある。
使用済み核燃料の最終処理場も作らずに原発を作り動かし続けるのは、下水道も汚水処理場も作らずに水洗便所を作り使い続けるようなもので、何時か破綻するのは子供でも分かることだった。
こんな恐ろしいことを今まで考えたこともなかった。これをノーテンキと云うのだろう。
人間の知恵は、平和利用のために原子力を制御出来るほど優れてはいないことを福島の事故は暴露した。機械は故障し人間は間違いを犯すことは免れない。
思い上がって、あるいは無知で危険極まりないことをしてきたわけだ。
原発廃止(したところで数10年はリスクを背負うことになるのだが)への軟着陸はどうすれば良いのだろう。
日本やスペインのような資源小国ではエネルギー使用量を可能な限り抑える必要があるので、僕自身の生活様式の洗い直しが必要だと痛感している。
その第一歩として、電力不足のないイルンでも、僕は80%省エネの、今まで嫌いだった蛍光電球に取り替えた。
それにしても、国の命運が電力事業者に握られている今の状態は異常で、国民を守るためにも電力事業形態の根本的な見直しが急務だろう。
そうは云っても生活を楽しむことも大切だ。
長女夫妻が、僕の家から5分のところのレストラン・メルチェ(Mertxe)に招待してくれた。
住宅地の中の普通の家を使ったものだ。
室内は落ち着いた雰囲気で食事のセクションと軽食のセクションがある。
《食事のセクション》
《軽食のセクション》
それでは今日食した料理を列挙してみよう。
《小イカのリゾット:イカ墨のリゾットは初めての味だった》
《帆立貝のカルパッチョ:洋風刺身をカルパッチョと呼ぶのはスペインでも定着したらしい》
《イベリコ豚の頬肉》
《ムール貝:何の変哲もないムール貝だが、天然物は養殖ものとは味が全く違う。そう云えばガリシア地方の入り江にムール貝の養殖イカダが無数に浮かんでいた》
《小羊の内臓》
《メルルーサ》
《ライスプディング:僕の大好きなデザート。米を主食とする大方の日本人には好まれないようだ》
満足だった。
これで葡萄酒込みで1人平均20ユーロ(3500円)とは日本の常識では考えられないことだ。
最近発表された、2009年度のスペイン17自治州の年間平均1人辺りの所得は、最も高いのがバスク自治州で309万円、次がマドリード自治州で305万円、3番目がカタルニア自治州で280万円だった。(1ユーロを118円として)
一方、2010年度では日本で一番高いのは東京都の600万円で、バスク自治州の2倍だ。
しかし生活実感では豊かさは逆転している。物価の違いがあると思うが、生き方への考え方の違いが大きいのだと思う。
2011.07.11 Monday
僕が初めてゲルニカを訪ねたのは1992年の初秋だった。ビルバオから山合いの道路を北に約30分行って小さな街のゲルニカに着いた。静かで眠ったような街だった。
しかし今回の印象は違った。人口は16,000人の街になって見違えるように発展して以前の印象とは大違いだった(美しい街とは云い難いが)。
因みにヒトラーのコンドル軍団が1937年に無差別絨毯爆撃した当時の人口は5,000人だったという。
ゲルニカに来たら、人々がその下に集って物事を決めたという、バスク民主主義の象徴の樫の木に敬意を表さなくてはならないだろう。
《いまは枯れてしまった樫の木の老木の幹》
《老木から株分けした若木》
樫の木の近くに由緒のありそうな建物の学校があったが、建造が1927年というから1937年の爆撃で一度は破壊されたものなのだろうか。
通りを歩いていると和食の定食屋が目に入った。
《定食屋:いけぐち》
このような小さな街では日本人が沢山居るはずもなく、土地の人たちを市場にしているのだろう。
興味があった。是非ここで食さなければ。
メニューは《とんかつ》、《豚の生姜焼き》、《鶏の照り焼き》、《ビーフカレー》などで
《ご飯》、《チャーハン》、《巻き厨寿司》が出される。
僕は《とんかつご飯》を食べたが肉はリブロースで、骨付きのとんかつは始めての経験だったし、非常に美味しい肉だった。
若い日本人の人たちが切り盛りしていて、サン・セバスティアンの和食店のチュビージョもそうだが日本人の若い人たちの行動力に感心する。
永田町にたむろして無益な議論しか出来ない老害たちは、国内の既得権にしがみつく以外に何が出来るのだろうか。
ゲルニカから北に30分ゆくと、港町ベルメオの郊外に僧院:サン・フアン・デ・ガステルガチェ(Ermita de San Juan de Gaztelugatxe) がある。
カンタブリア海に突き出た岩山の上の小さな僧院で、このような人里離れたところでどのような修行をしたのだろうか。
そう思うと此処もモンサン・ミッシェルも意味することは同じで、観光客の群れを見にモンサン・ミッシェルに行く必要もないだろう。
2011.07.08 Friday
7月6日から14日まで開催されるパンプローナの熱狂的なサン・フェルミン祭が始まった。
僕はテレビのニュースでこれを見ていた。
7月6日の正午に市役所のバルコニーから発射されたロケット花火の空中での破裂音とともに祭りの開会が宣言され、市庁舎の前の広場と、これに繋がる路地を埋め尽くしたスペイン中はおろか世界から集まってきた人たちが熱狂する。
否、大きなプラスチックのコップに入れた赤葡萄酒やリンゴ酒を、朝から飲み続けてクデングデンに酔った集団の大騒ぎと云う方が正しいかもしれない。
もしかしたらノンベーの僕向きの祭りかもしれない。
首と腰に赤い布を巻きつけた白装束の正装が赤葡萄酒に染まってピンクに変わってしまっている。白装束で正装したテレビ局の女性レポーターが、頭から赤葡萄酒をぶっ掛けられて悲鳴を上げる。
酔っ払い天国。早朝からの酒浸りが許されるノンベーには嬉しいお祭り。
群衆の中に日本人観光客と思われる小集団が見えたが、シラフのようで何か雰囲気に溶け込めずに呆然としている様子。
外国人観光客が浅草の三社祭に簡単には溶け込めないのと同じだろう。その国その土地の歴史と文化が分からなければ、祭りに心理的に参加しようがないから。
7日から14日まで開催される闘牛のために、雄牛を仮り置き場から闘牛場に追い込む、祭りのメインイベントのエンシエロ(牛追い)は7日の午前8時にロケット花火と共に開始された。
置き場から出された約10頭の牛が坂を駆け上がり市役所の前を通って路地に入り、闘牛場に向かう850メートルを2分30秒かけて疾走する。
自分の勇気を誇示するように、その牛の集団の角の前を走る無鉄砲な人たちも多く、怪我人も出るのでナバラ病院は準備万端。院長がテレビのインタビューに応じていた。
笑ってしまったのは、茶色と白のブチの1頭の牡牛が路地に寝そべってしまって、まるで
『酔っ払い相手に、こんな馬鹿馬鹿しいことやってられねーよ』
と云わんばかりに辺りを睥睨していたのはエンシエロのハイライトだった。
祭りには理屈はない。己の血がたぎるかどうかなのだろう。