スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク | - | | - | - | - | - |

帰京、スズメバチの出迎え

 

東京も電力不足の冷房シーズンが終わったようなので、雑用を片付けに帰京したら、見慣れない蜂が飛び回っていた。

あちこち探したら、50年来の付き合いの柿の木に、メロンを少し大きくしたような美しい工芸品のような蜂の巣を見つけた。

 

あまりに見事なので保存しておこうと思って、無邪気にも巣の写真を知人たちにメールしたら、危険なスズメバチの巣かも知れないと助言された。

そこで保健所に訊いてみたらスズメバチの巣に違いないとのこと。刺されると命にもかかわるとのことだった。

 

早速、保健所職員が来てくれて駆除してくれたが、樹皮と唾液でこのような工芸品を作るスズメバチの能力に感じ入ってしまった。

餌をとりに出で居た数匹の蜂が戻ったときに、巣が無くなったので《家なしハッチ》になって柿の木の周りを飛び回っているのを見て、何となく哀れを感じてしまったのだった。

ところでバスク地方での話では…

スズメバチは元々東洋の蜂でヨーロッパには生育していなかったのが、どういうルートで入ってきたのか、此処数年で大繁殖して大問題となっている。

というのはスズメバチはミツバチの幼虫を食ってしまうので、北ヨーロッパでは養蜂業が大打撃を受けていて、バスク地方でも昨今このスズメバチが目撃されており、養蜂家達は震え上がっているという。

実際ミツバチが全滅させられたところも出てきたようで、蜂蜜愛好家たちも『もう地元の蜂蜜が食べられなくなるかも』と嘆いているそうだ。

 

 


Lauburu | 東京で | 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

パストーラのモノローグ〜4

そこで私は云った:

『フランスに行かないか?多分、私は兄を見つけられて、彼は我々の仕事を探して、そして…』

『だが、パストーラ、難しいから我々はフランスに行かなかったのだ』

『でも、為せば為るでしょう!』

『君は完全に間違っている。フランス国境にはアンドラよりも多くの監視がいる、君は何処に身を置くのだ!おまけにフランス人は書類のない人間は受け入れない』

『我々はマキだ!他のマキは受け入れた』

『それは以前の話だ、今は違う。もし我々を捕らえれば、フランコ当局に送還するだろう。いまさらフランスで何をするのか私には分からない。フランスであろうとなかろうと、ベニファッサの山で動くように君が動ける場所が世界の何処かにあるのか』

『フランスではもっと幸運に恵まれるとは云ってはいません、しかし、あなたはスペインに戻るということが分かっていますか?もう一度その日暮らしをし、警備隊から逃げまわる…それが人間の生き方でしょうか』

『私が分からないことは、もし家族と会えないなら、そんな人間が本当の人間なのかということだ』

『あなたの家族に会いに行きたいのですね、フランシスコ?』

彼は頭でそうだと云い、真剣になって小さな声で云った:

『ただ一度だけでも家族に会いたい、パストーラ、一度だけでも。娘たちに、妻に』

フランシスコは家族を忘れてはいなかった。私と違って、心からの家族を持つ人は誰でも、喜んで家族を忘れるわけがないと思う。

『君はフランスに行くのか、パストーラ?』

『もちろん違います。我々はこれを一緒に始めました、続けましょう、一緒に。フランスでもスペインでも誰も私を待っていません。私は何処でも育つ雑草のようなものです。戻りましょう。カステジョーテに行きましょう、そしてあなたの家族に会うために何とかやって行きましょう』

 

我々は以前のように山の中を歩きに歩いた。治安警備隊の警戒が続いているので、カステジョーテまで迂回し遠回りした。

しかし同志たちが居て支援点があった以前とは状況は異なるのは明らかだった。我々は再び盗んだ。小羊までも。

我々はこの世で何も持たない惨めな人間になったのだった。我々はこちらでは食糧を少々、あちらでは他のものを、そして時々何処かの農民から小銭を取り上げながら、同じように山に居続けるだろう。それは負け戦だったがどうでも良かった。

 

ある日、彼は道の途中で私に云った:

『なあパストーラ、君が望むなら私は一人で行く、君は安全なところで私を待つ、これは危険で、君はそれに関わる理由はないから』

私は彼に云った:

『放って置いてくれ、私は行きたいところに行く、今は全てが我々には危険なのだ:行くのも留まるのも、上に行くのも下に行くのも。何処でも何時でも彼らは我々を殺せるのだ。だから危険について話さないほうが良い』 

 

我々は5月の末にカステジョーテの郊外に着いた。私は勇敢な男だし、女だったときもまた勇敢だった。しかし実は、カステジョーテのあの日には確かに少し恐怖があった。狼の口に入りに行くようなもので、その口は今にも閉まる可能性があった。

フランシスコは私に云った:

『君はもう一度女の服装をすれば、私の母の家まで行くことが出来る』

私は彼に答えた:

『私はもう女装する積りはない。まして今は彼らが私を銃撃するかも知れない、何が望みなのだ、私が女装して死ぬことか?だめだ、私は今の男として死ぬ』

 

夜、私は家に近づき、我々が以前に会った放棄された農家に家族が行く約束をした。母親は嫁に伝えるだろうし、彼女は娘たちと駆けつけるだろう。

彼らは我々にかなりの食べ物を持ってきたが、それは彼らが持っている僅かなカネで買ったものだった。

面会が終わったら、私が以前に見たように泣いて目を赤くした、家族を残して行かざるを得ないフランシスコを見るだろうと私は考えた、しかし彼は視線を空中に彷徨わせて、今までになく棒切れのように乾いていた。

彼は家族と会うのはこれが最後と分かっていたし、はっきりと云わないまでも永遠の別れを家族に告げ、涙は彼の運命を変えないのを知っていたのだろう。

 

カステジョーテへの最後の訪問の後、我々は洞窟に向かい、着いたのは11月8日か10日だった。寒くて私は疲れていて洞窟は私の家のように思えた。そこは誰も見つけられないところなので全てが元の通りだった。

実は、私の人生でこれほど役に立ち安全な家を持ったことはなかったが、フランシスコはもっと良いところに住んでいたので、ときどき洞窟の狼とか穴の中のウサギのようだと云って不平を云った。

 

11月26日、彼は農家に《経済的打撃》を与えに行きたがった。美味しいトルティージャが食べたい、毎日パンとハムでは嫌だと云った。我々は農家アルナウに行ってトルティージャを作らせて食べ、マッチ、パン、少しの古着を奪って洞窟に戻った。

私は彼に云った:

『フランシスコ、こんな僅かなもののために、危険を冒す価値があると思いますか?トルティージャを食べたいというだけで、我々を警備隊員が捕らえても良いのですか?』

彼は私が正しいと直ぐに認めたので、争いにはならなかった。

 

フランシスコは洞窟で寒い数ヶ月を、生気なく、何の欲求も、喜びの気持ちもなく、毎日考え、自分の思考に入り込んで過ごした。しかし3月になり4月になると直ぐに、彼は動きたがった。我々はまた襲撃を始めた。

しかし最悪なことは、農民たちが我々を良くは思っていないことに気がついたことだった。以前とは違っていた。以前は、多くの農民がマキを支持しフランコに反対だった。しかし今は違った。武器で脅さなければならなかった。

襲撃をするとき、フランシスコは段々と大胆になって行ったが、それはより良い利得を引き出すためではなく、危険に身を曝したがるかのようだった。

 

洞窟で我々が落ちついたときを過ごすと直ぐに、彼は苛々しだした、そして、カネも食物も衣服も必要ないのに我々は《見回り》に出かけたが、ますます危険になった。家族を忘れるためにフランシスコは動き回る他はないのだろう。

 

襲撃をするとき、私は誰も不憫だと思わなかったので、人並み以上に脅迫し殴打した。今まで誰が私を不憫だと思っただろうか?

 

そしてある日、僅かなものの強奪に見切りをつけたフランシスコが云った:

『パストーラ、今日から我々は大きな事をしよう。貧しい人間の家の僅かな物はお終りにしよう。我々が鳴らす音に合わせて治安警備隊や資本家を踊らせよう。だが、我々が何をしようとも、確実なことがある、私は二度と娘たちには会えないということだ』

彼が云った娘たちとの再会の件は事実だった。

 

フランシスコは云った:

『我々は、はした金や2切れの豚脂の強盗をし、地面の中の虫のように隠れるのをもう続けられない。大金を狙った大きな襲撃をしなくてはならない』

『何のためにです?』

『我々はフランスに行こう、そこで新しい生活を始めよう。おそらく、時が経てば家族を迎えに行けて、家族もにフランスに来るだろう』

『フランスの件は簡単ではありません、書類が…、私が行きたがったとき、あなた自身が云いました』

『カネがあれば何でも買えるのだ、パストーラ:書類、新しい名前、何でもかんでも。そして私は大金がある所を知っている』

『何処ですか?』

『エルス・レゲルスのノーメン一族の農場だ。君はノーメン一族が誰かを知っているか?』(*注:SOSとNOMENはスペインの米の2大生産・販売業者)

『米を売っているのを知っています』

『米を売る!君は云っていることの意味が分かっていない。ノーメン一族は米を栽培し、包装し、国中に配送している。スペインで最も裕福な実業家の一人だ。エル・カタランが私に、彼らはレグエスの農場で夏を過ごす豪農だと云った。今まではマキの同志たちも敢えてノーメン一族には手を出さなかった』

 

我々はノーメン家の監視が出来る場所を私は探した。その地区は全体に丘や小山があったので監視するのは容易だった。

我々は家族が出入りするのを見た:年取ったものが2人、若いのが2人、小さな子供たち…また数人の召使がいた。昼は家の中で食事をしたが、夜は涼しいので庭で食べた。家族は丸い大きな石のテーブルに座っていた。一人の若い女中が給仕をした。

農場は労働者たちの家を持ち、入り口には現場監督の家があった;しかし、我々が見たところから母屋は遠くにあった。このような素晴らしい農家を見たことがなかった。

8月2日の午後、我々は入念に石鹸で体を洗った。私は何時も短いのが好きな

フランシスコの髪を切った。我々は髭を剃り、我々2人は床屋から出てきたような顔になった。彼は持ってきたコールテンのズボンをはき、私は黒いコールテンの上着を着た。我々はキャンプから新しい布靴も持ってきていた。襲撃の代わりに、むしろ踊りに行くようだった。

 

夜になった。彼らは何時も10時に夕食をした。家から最初の料理が出されたのをフランシスコが見たときに云った:《では行こう》。

我々は手に武器を持って行った。最初に出くわしたのは現場監督だったが、フランシスコは彼の顔に自動小銃を突きつけて云った:《お前の主人まで我々を連れて行け、そして我々が彼と話したがっていると云え》。

 

家族が食事をする大きな石のテーブルに行くと、女中は彼らに二皿目の料理を出していた。現場監督はフランシスコが彼に命じたことを云った:《ノーメンさま、この紳士たちがあなたと話したがっています》。彼らは我々が小銃と自動小銃を持ち、フランシスコは爆弾の帯を着けているのを見た。

 

フランシスコが最初にしたことは、ノーメンの手を後ろで固く縛ることだった。そこでフランシスコは、武器が隠されていないかを見るためにノーメンと家を見回りに行くと云った。私は家族全員に銃を向け、庭の外から誰かが近づくかもしれないも知れないので入り口に注意をして警戒していた。

家は非常に大きかったので、彼は30分してピストルを持って戻って来た。

ノーメンはフランシスコに、話せば互いに分かり合えて全てを解決出来るので、座って落ち着いて話そうと云った。フランシスコは同意した。

 

そこでフランシスコは25万ペセタ欲しいと云うと、ノーメンが云った:

『どうして君は我々が何時も住んでもいない夏の家で、そんなカネを手にしようとするのか?何時も我々が住んでいる家でもそんな大金は置いていない。分別を持ってくれ。なあ君、こんなことでは我々は全員が敗者になってしまう。君たちもだ、もし明日私が銀行から25万ペセタ引き出して、支配人に理由も云わずにカネを抱えて出てきたら、彼らは何か変なことが起こったと疑い始めるだろうし、君も私も望まないことが起こるだろう。君に実際的で単純なことを提案しよう:私は家にあるカネを全て探そう、バッグにあるカネは3〜4000ペセタだろう、そして君たちは静かに去り、私は治安警備隊に知らせない』

しかしフランシスコは、それではフランスに逃げられないし、書類も買えないし、新しい生活も始められないと考えているので、逃げ口上を聞く気はなかった:

『駄目だ、この家にはもっとあるはずだ。3〜4000ペセタでは何も出来ない、では私が善意の持ち主なのを示すために、金額を下げよう。もし今、私に15万ペセタを渡すなら、我々は立ち去ろう』

『どうして私を信じないのだ?私は大金を家に置いてはいない。25万でも15万でも2万5千でも同じだ』

『では、行動に移らなくてはならない。他の方法はない』

フランシスコは立ち上がって、テーブルを廻った。突然、女の子が座っている椅子の後ろで止まった。

『この子は誰だ?』

『私の下の娘です』、ノーメンが答えた。

『では、あなたがカネを集めに行く間は、この子を人質にしよう。25万ペセタだ、鐚一文も欠けても同意はしない、分かったか?』

 

そこで皆がリラックスして話し合うために菓子の大皿が出された。菓子など何年も食べていなかったので油断があった。

そこで息子が云った:

『食後の甘い葡萄酒を取りに行こう』、そして彼は家に入った。

 

しばらくして我々の背後の家の明りが点いた。窓越しに息子がピストルを持っているのが見えた。私は地面に伏せ、フランシスコも伏せるように突き飛ばした。

我々のうえに弾丸が降り始めた。息子は、彼の家族を傷つけるかも知れないのに射撃を止めなかった。私は射撃を止めずに出口のほうに這って行った。フランシスコが自動小銃の掃射をしながら後から来るのが見えた。目標も見えず、手探りで、狂ったように我々は射撃してかなりの時が経った。私はほぼ庭の門のところに居た。大急ぎで逃げ、山に姿をくらます時だった。

 

『行こうか?』、フランシスコに小声で云った。しかし彼は答えなかった。私は振り返り、彼がずっと後ろにいて具合が悪そうに這っているのが見えた。

私はフランシスコが苦痛の素振りをして私に云ったので呆然となった:

『撃たれた、パストーラ、撃たれた』

『何処を撃たれた?』

『腰だ』、暗闇で彼が云うのが聞こえた。

彼を助け起こして腕を掴んで彼を運んだ。私は彼を引きずり少し遠ざかったとき、私は止まって彼の顔を見た。蝋のようだった。

『どうだ、フランシスコ?』

『もう歩けない、パストーラ。私を置いて行け、君は行け。私は大量に出血している。血が脚を伝わるのが分かる』

『見てみよう、そして処置しよう』

私はシャツを脱いで裂いた、そして背中の傷に包帯をした。大量に出血していたので、我々が通ったところに彼の血の跡を残してきた。それで彼らは我々を見つけるだろう。腰の弾の傷は手当てしたが血は未だ出ていた。私はシャツで2つの端布を作って、血が落ちないように足首のところでズボンの裾を縛った。多かれ少なかれ一時的な解決になったようだった。そこで彼の杖になるように、ナイフで木の枝を切って皮をはいだ。

『さあ、同志…行こう』、と彼に云った。

彼は話す気力が無かったので頭で出来ないと云った。彼を引っ張って立たせた。

『駄目だ』、彼はもぐもぐと云った。私は彼に大声で云った:

『出来る!君は出来る!』

彼は残った力を振り絞って立ち上がったが、直立して直ぐに頭を反らしてもどし始めた。その後にもどすのが止まって、胆汁を吐き出した。

『私の状態は最悪だ』、彼は云った。

『良くなるさ。洞窟に着いたら暖かいスープを作ってやる。少し我慢して』

確かに彼は30分ほど我慢したが、その後に突然倒れて、地面に仰向けに横たわった。私は彼の脇に屈みこんだ。両目の下には黒いシミがあり、体全体が震え始めた。

『寒い、パストーラ』

私は彼の手をとったが氷のようだった。そしてイビキをかくように呼吸した。そして息をしなくなった。

 

彼は死んだ。私は辺りを見た。彼に何をすべきか分からなかった:埋葬する、不可能だ;逃げ続けなければならなかった。私は彼を少し覆うために木の枝を彼に乗せることを考えたが、だが何のためにだ?

そこで私はそこに放ってあった彼の武器を見た。私は自動小銃ステルンを取り上げて彼の脇に置いた。彼には使われていない弾薬と手榴弾を残した。

 

私は振り返ることもなく歩き続けた。

私はバルセバーラの断崖を過ぎ、原野を横切って我々の隠された洞窟に向かって歩き続けた。

 

夜が明け始めた、丘に着いたとき私は立ち止まって空を見た。

太陽は上り始め、月はまだ天空にあった。私は太陽と月を見つめて自分に云いきかせた。太陽と月を良く見ろ、お前がこれから持つ唯一の同志たちだから。お前は今まで何と孤独だったのだ、テレセータ、これからもどんなに孤独なのだろうか!

 

私はひざまずいた、顔を手で覆って泣き始めた。私が女でなくなって以来、泣いたのは初めてだった。 【終】

 

 

 
Lauburu | スペインで | 08:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

パストーラのモノローグ〜3

 

我々は疲れ果てるまで歩きに歩いた。寒く食糧は不足し、治安警備隊とはあらゆるところで出合った。このようなことでは冬は過ごせないだろう。

そこでフランシスコは私に、パウレスの農家ジョブレックに行こうかと云った。数年前にマキを手助けした農家だった。

彼は、もしカネを払えば我々に避難所を与え、食事をさせるだろうと考えていた。

私は他には解決方法が見当たらないと彼に云った。

 

道は長く非常に辛かった。殆んど食糧がなかったので、途中で見つけた農家に《経済的打撃》を与えた。しかし多くの人間が体制と反体制からの圧迫を受けるのに疲れて町に戻ったので誰もがカネを持っていなかった。

ただ食べるために、ここではパンと数キロの豚脂、あそこでは干し肉とオリーブ油だけとか。

 

我々は農家ジョブレックに着いた。その辺ではバレンシアやカルロス・エル・カタランが過ごしたことがあり、見込みのある支援点だった。

そこには二人ともホセ・サルバドールという父親と息子と彼らの妻が住んでいた。フランシスコは彼らに夕食が欲しいと頼み、また我々の支援点になれるかどうかと訊ねた。息子が答えた:

『まさか!我々は少しの食糧でさえも断ります。数え切れないほどの治安警備で満ちていますから』

そこでフランシスコは袋から500ペセタ取り出した、我々に残る最後のものだった、そして云った:

『夕食代は払います、その他に明日食糧を買いに行ってください。そしてこの家の外で、我々が休めところを教えてください』

カネを見たとき彼の顔が変わった、違った調子で話し始めた。

『母がジャガイモの大きなトルティージャとオリーブ油で炒めた豚脂を用意します。農家のもっと上の方に脇に薪を積み上げた風除けになる小屋があります。もし後で必要なもの全てを云うか、リストを作ってくれれば、明日、私は町に行ってそれを持ってきましょう』

 

翌日、息子が町から戻り、我々が頼んだもの全てを持ってきた。

その後、我々は文無しだったので事態は悪くなって行った。この連中は無料で我々に避難所を与えたり、腹一杯にさせる積りはなかった。

フランシスコは父親と息子に相談したいと云った。

食堂に集まったときに、息子は、《盗む》カネがある農家の良い情報を我々に渡そうと云った。彼は我々が奪う金の20パーセントを自分によこせと云った。

 

彼らと別れたあとで私は云った:

『フランシスコ、私には全てが臭い。私はこの連中を少しも信用できない』

『そう、それが我々にどうだというのだ?』

『フランシスコ、それは泥棒と云うことだ。20パーセントを取ると云ったのを聞いただろ?彼は《盗む》と云った。私は今まで盗んだことはない。マキのため革命のためにすることと、略奪しに入って泥棒のようにカネを取るのとは別物だ』

フランシスコは座って私をジッと見つめた:

『きけよ、パストーラ、君は今の我々のことが分かっていないのだろう?我々を治安警備隊がつけまわすので何処に行って良いのか分からない。いま我々は皆の敵なのだ:マキの、そして警備隊の。我々には選択の余地はない、ないのだ』

『そう、私はいまの状態を分かっている、確かに分かっている;だが山の中では生き延びる方法は沢山ある』

『害獣のようにか!私は文明人だ。だが気にするな、パストーラ、君は《盗む》という言葉に悩んでいる。我々が《経済的打撃》を与える時には、私は《プロレタリア革命万歳!》と云う。それなら君は納得するだろう…』

私は完全には納得しなかったが口をつぐんだ。

 

9月8日に廃棄された小舟で我々はエブロ川を渡った。トルトッサのそばで時折農家に行ったが、ただ食べ物を乞うためだった。フランシスコはおそらく私のために、何時も農夫たちに我々はマキだ、あなた方は《体制と戦うために組織化しなければならない》と云った。

我々は疲れたので、ジョブレックの農家に戻ることにした、もう一度ミラベのあたりで川を渡ってコルベータで脚を止めた。ここではフランシスコが知っている廃品回収業者の家に泊まった。彼らと夕食をしたが、その時に廃品回収業者のアントニオがフランシスコに、近くの葡萄倉庫では給料日には労働者はカネを持っているので、我々が《経済的打撃》を与えることを提案した。

『労働者大衆から盗むのか!』

『フランシスコ、マキの君たちは何とも腹立たしい!何を云いたいんだ』

『この件は終わりにしよう、アントニオ、我々は陰口を云われるために《打撃》を与える積りはない。貧乏のままのほうがましだ』

アントニオは一応了解したが、目は怒っているようだった。

 

藁布団に入ったとき、私は小銃を放さなかった、そして何時ものように眼を開けて寝た。フランシスコは違った、彼は大の字になって満足そうだった。

朝の5時頃に私は外で音を聞いたので彼を起こした。

『治安警備隊だ、降伏しろ!』

風よりも速く、フランシスコは扉から自動小銃を掃射して我々は走り去った。警備隊も発射し、彼らは避難せざるを得なかった。彼らは遠ざかった。我々が潜り込んだ道のお蔭で、もう彼らは追跡出来なかった。

フランシスコはアントニオを殺す時間がなかったのに腹を立てた。

 

何時ものように我々は歩き廻った。11月で寒かったが、フランシスコは非常に苛々していて何処にも立ち止まらなかった。こんなに治安警備隊がいては、今の隠れ家に留まるのは危険だと云った。食糧の蓄えも体力も尽きつつあることは私にも分かっていた。

彼は云った:

『何処かの支援点に行こう、おそらく未だ利用できるものがある』。

私は彼に云った:

『どうしたいのだ、彼らに捕まえて欲しいのか?もう警備隊はこの地区の支援点を全て知っている、違うか?論外の話だ。だが、もし我々が何もしなかったら、冬の終わりにはあなたも私も死んだのも同然だろう。厳しい冬が来る。何処かに留まって休んで厳寒から避難しなければならない。山に行くのはどうだ、私は居心地の良い洞窟があるところを知っている?』

『ところで何を食べるのだ、毎日タイムのスープか?』、フランシスコが答えた。

『洞窟に入る前に、食糧を調達しにモレージャ地区で幾つかの《打撃》を与えて、必要なものを集めよう』

最後に彼は同意した、私が幾つかの《打撃》を与えると云ったことが彼の気に入ったのだと思った。

 

最初の《打撃》はアルコレアの農家エスレットに与えた。

中には2人の年配の女性がいただけだったので簡単だった。我々が引き出したものは大したものではなかったが悪くもなかった:食べ物ではヌードル3キロ、パン10個、豚脂9キロ。その後、家を捜索してシャツ10枚、コールテンのズボン、上着、毛のセーター、時計の鎖、銀の結婚指輪、新品同然の毛布。

我々が立ち去るとき、フランシスコは主寝室以外の寝室を見なかったのを思い出して、そこに行った。ナイトテーブルの上にあった11,000ペセタを持って戻った。

我々が去るとき、彼女たちが泣き始めたのが聞こえた。

 

我々は洞窟に潜り込み、居心地がよいように整え始めた。勿論、警備隊は我々を探しに数人を派遣したけれども見つけられなかった。

いまフランシスコは満足していたが、彼は今の食糧では冬を越せず、カネはあっても買い物に行くのは非常に危険だと云った。そこで、彼は私に訪ねて行ける農家があるかどうかを訊いたので、それを彼に云った。

カンデアレスの農家が頭に浮かんだ。

11月27日の夜8時にそこに行った。歳をとった夫婦だけだった。彼らは直ぐにカネはないと我々に云い、農家は貧しくて修繕するところが沢山あったので本当のようだった。そこで我々は食糧を持ち去ったが、それは悪くはなかった:パン14個、豚脂2キロ、干し肉、小麦粉…コニャック(カタルニア産の安酒らしい)3リットル。私もまた食糧を背中に担ぎ、山に登る2匹の山羊のように走った。

 

我々は12月一杯洞窟に留まった。非常に静かで、遠慮せずに火を焚けるので暖かかった。

 

私は山で人生を過ごして来たので満足だった、世話をする羊は居なかったが、退屈することも、一人でいることが不快になることもなかった。

だが、フランシスコはこの点で違っていた。時に、檻の中にでも居るかのように洞窟の周りを歩き廻り、時に、死んだように何時間も静かに過ごした。

 

しかし1952年1月になると、食糧が尽きて行き始めた。フランシスコは《少し活動》が必要だと云ったが、私はそれが意味するところが分かった。我々は9日にカステルのガビーノという農家まで降りていった。

私は農家を知っており、フランシスコはその村も山も知識がなかったので喜んだようだった。

 

午後7時に武器を持って家に入った。全てが平穏だったが、私は戸口で見張った。中には農夫たちがいたが、私は彼らが誰だったか思い出せなかった。

そのときフランシスコが叫んだ:

『こいつらは協力をしたがらない。奴を監視してくれ、私は家を《整理》しに行くから』

農夫は私が分からなかったが、私は直ぐに彼を思い出した。フアンと云った。

私がテレサだったとき一度ならず薪を買いに来た。嫌な奴だった。囲いの中で彼に薪を渡したが、何時も口に薄笑いを浮かべてからかうように私を見ていた。何時もそうだった、一度ならず私はガラクタ以下とでも云うように見つめていた。

 

フアンは苛々し始めた:

『あなたの友だちに私のものに手をつけるなと云ってくれ、この家には何もないから』

フランシスコが皿を床に投げ、家具を動かすのが聞こえた。

暫らくして、食べ物の包みを引きずり、手に猟銃を持ってフランシスコが現れた。

『何もないだと、お前?』。そして彼は私を振り返って云った、『万事異常がないか外を一回りしてくれ』

全てが平穏で私はまた家に戻った。その時、農婦が生みたての卵で大きなトルティージャを作っていた、フランシスコが笑いながら云った:

『トルティージャが出来たら持ってゆこう、今日は仕事をする気にはならないから』

我々はトルティージャをブリキの弁当箱に入れ、フランシスコは立ち去ろうと云うかのように頭で合図をした。

 

そこで私はフアンに云った:

『まだだ、する事が残っている』

私は火を熾すために暖炉にあった立派な棍棒に目をつけた、それは形からオリーブの木に違いなかった。私は一番大きなものを1本掴んで奴のところに行った。私が分かるかどうか見るために彼の目の前に顔を突き出したが、彼は分からなかった。そこで彼に云った:

『少し笑ってみろ、ただ口を一杯に開けるな』

彼は私が気が狂ったと考えたようだった。

『こっそり笑っているように少し笑え、さもなければ撃つぞ』

彼はふてくされたが、最後には本当にこっそり笑っているような顔をした。そこで私は、彼が何も云わずに何時も私を馬鹿にしていた様子を思い出した。

私は彼の後ろに行って、棒で背中を強く殴った、肩から肩へと強打したので彼は床に突っ伏した。床に顔を打ち付けたとき、私は屈んで彼の背中一面を強打した。フランシスコは戸口にいて何も云わずに見ていた、そこで云った:

『行こうか?』

私は包みを掴んで彼に続いた。

 

『今晩洞窟に着くかも知れないので急いで行こう、そのほうが安全だから』

彼は頭で同意した、そして暫らくして私に訊いた:

『あいつをしつこく殴ったのは何故だ?』

『若いときのことを思い出したから』

彼はそれ以上訊かなかった。好奇心があったのは事実だが彼は我慢した。私がマキに入ってから、何時も同じだった:私の人生についての質問は一切なかった。それが決まりだと考えたし心地良かった。彼らは誰も私をからかわなかったし、馬鹿なことで私の生活を不愉快にしなかったし、私を種に楽しもうとはしなかった。

 

脚を酷使して、まだ夜明け前に洞窟に着いた。フランシスコは夜に山を歩く習慣がなかったので足首を捻挫してしまった。彼は藁布団に倒れこんで音沙汰なかった。布靴を履いたまま眠っていた。私は違った。服を脱いで香りの良いビロードの長いシャツを着た。驚いたことに眠れなかった。頭が生き生きして明晰になって色々な思いが去来した。フアンが誰だったか思い出すことで、以前の経験の真っただ中に私をもう一度置いたのだった。

 

彼を棒で強打したことは後悔してはいなかった。私は彼を見て激怒した理由を考え始めた。薪代として僅かばかりを私に払ったこと、何時も人を利用したがったことを私は知っていたが、そんなことはどうでも良いことだ。

 

私が我慢できずに怒ったのは、私に薪代を払うときに浮かべる気取った薄笑いを思い出したからだった。何も悪いことをしないので咎められないが、ある人間について云える最悪のことを伝える薄笑いだった…羊の方がお前よりましだ、雌鶏や蛆虫のほうがもっと価値があるというように彼は薄笑いを浮かべた。

私は藁布団の中で何度も寝返りを打った。

もっと悪質な嘲笑をした者もいた、彼らに復讐する時だと私は考え始めた。

 

我々は冬と春を洞窟で過ごした。私は上手に管理したので食糧は残っていた、フランシスコは洞窟で静かにしているのに慣れた。我々はフランシスコのカレンダーでの1952年7月まで洞窟を去らなかった。

そこで私の云ったことが彼を驚かせた:

『《打撃》を与えるのはどうだろう、食糧が減り始めたから?』

『どうしたら良いのか殆んど思い出せない、長い間ここに隠れていたので野生動物のようになってしまった』

『私が全てやる。私の村に行って、あなたの言を借りれば、私の従兄弟を《訪問》しましょう』

『君の従兄弟をだと?パストーラ、もう君が分からなくなった!』

『そのうち分かるでしょう』

何ヶ月も経ったが、私の頭の中では未だに同じ考えが踊っていた:私は復讐をすべき者にしなかった。

しかし、いま私はマキの名において《打撃》を与えずに、私の名においてするのだ、そして貸し借りなしにする時なのだ。今するか、しないかだ。

『君の従兄弟は何をしたのだ?』

『私を冷笑した』

『だが、それだけが理由か?我々は食糧が必要なのだと忠告しておこう;復讐に全ての力を注ぎこまないように』

『あなたは心配しないで、ホセの農家は裕福だから』

『従兄弟はホセと云うのか?』

『そう、ホセです』

『ではホセがカネを持っていることを願おう、そうでなければ彼にはとんでもないことが起こるだろう』

『持っていようといなかろうと、とんでもないことが彼に起こるでしょう』

 

我々は銃を向けて真っ直ぐに家に入った。フランシスコは我々はマキで、革命の名の下に罰金を取りに来たと彼らに云った…私は彼を遮ってホセの前に立って彼に云った:

『私が分かるか?』

彼は一瞬分からなかった;そして、そんなものを見たことがないかのように、顔のあちこちを見つめながら呆けたようになった。最後に、だらしなく口を開いて私に云った:

『テレサ、君はテレサか?君が男の服を着て山に逃げたと私に皆が云った!だが本当かどうかは誰も知らない』

『気分が悪くなるのでもう喋るな、後でお前と私とで話そう』

私はフランシスコを呼んだ。そして、従兄弟の妻と子供をベッドの横木に彼らを縛りつけた。

 

ホセは、我々が持って行くものの場所を教えるように残しておいた。彼は不承不承我々を手伝った。何処にハム、衣服、オリーブ油、良い葡萄酒、コニャックがあるか我々に云った。我々はまた小麦粉、塩、麺も持ち去るのだが、一番大切なことを忘れることはなかった。カネのことだった。

 

カネの件は何時も一番難しかった。フランシスコは従兄弟に何処にペセタがあるかを訊いた。従兄弟は、論外だ、物資は我々が全て持ち去った、今は時代が悪いので彼の家ではカネはないと云った。私はフランシスコを押しのけてホセの前に行った。彼を座らせ私も座った。彼はふてくされているようだった。私に云った:

『聞いてくれ、テレセータ、今は何て云うのだっけ:君たちは私の家を上から下まで清掃したので、今後どうして食べて行けるのか分からない、君たちは死ぬほど私を驚かせた。私の息子と妻を犬でもあるかのように縛った、君と私は一族ではないのか?何故いま手にしているもので満足しないのか?』

私は直ぐには答えなかった。私は彼の目を見つめて彼に云った:

『いま私はお前を楽しませているか、ホセ?』

『何を云っているのだ?』

『いま私の名前はフロレンシオだ、多分いま私はお前を楽しませているし、お前は私をあざ笑いたがっている、と私は云っているのだ』

『聞いてくれ、テレサ、いやフロレンシオ、私は君ともめたくない、そして君たちは沢山のものを持ち去ったいまでも警備隊に知らせはしないと約束する。君に誓う、そうすれば事は済むだろう』

『私に誓おうと誓わなかろうとどうでも良い。知りたいのは私がお前を楽しませているかどうかだ』

ホセはうろたえて手を震わせた、事はまだ終わってはいないのが分かったので顔は蒼白になった。

『いや、君は私を楽しませてはいない』

『そうか、テレサのときはお前を楽しませた、それとも私をテレソと呼んでいたときだったか?テレソ、お前の脚の間には何があるの?私は覚えているぞ』

 

従兄弟は震え始めて口が歪んだ、目は飛び出した。私は彼の首に小銃を押し付けて彼を押した。そこで彼は我慢が出来なくなって叫んだ:

『洗濯場の中だ、洗濯場の中の赤瓦の下にある、25,000ペセタ見つかるだろう、神に誓ってだ』

フランシスコは外に出た。私は動かなかった。ホセから顔を伝わって大粒の涙が落ちたが、私にはどうでも良かった。やっとフランシスコが大変満足して戻った:

『本当だった、同志、本当だった!ここで君の従兄弟は我々に出費をやり繰りするための贈り物をしてくれた』

 

だが、ホセは私が云ったことを聞いたとき絶望した:

『私が女の子だったとき、何がお前をそんなに楽しませたのだ?さあ、それを私に云ってみろ!』

ホセは悪霊に取りつかれたように大声を上げた:

『放してくれ、放してくれ!これ以上何も持っていない!君はもっと何が欲しいのだ、何が?』

その時は準備した自分の棍棒を持っていた。彼を棍棒で殴り始めた、何度も、何度も:脚、腰、腕、腹を。彼は床に倒れた、私は殴り続けた:足、手、尻を…

 

フランシスコが来て私を止めた:

『さあ、同志、奴に弾を撃ち込むか立ち去るかだ、我々はここに長居し過ぎた』

 

私は彼を撃ちたくはなかった。だが、もし、為す術のない人間を痛めつけたなら、その人間が報復することを理解させたかったのだ:男か女か分からない哀れな羊飼いであっても、報復することがあるのだということを。

 

洞窟の中にいれば安全なのは明らかだったが、私はフランシスコが少し動くことが必要なのでそこから出なければと考えていた。

フランシスコは家族についてはそれほど思い出していないようだったが、私には口をつぐんでいるのだろう。

フランシスコにとって、我々の今の生き方は監獄のように思えた。

突然彼は云った:

『我々はフランスに逃げたらどうだろう、パストーラ?此処では息が詰まる、このウサギの穴にはもう居ることは出来ない。家族にはもう会えないが、フランスでは我々は自由だ』

『フランシスコ、あなたは国境を越える危険性が分かっていますか?確実に我々を捕らえるでしょう』

『ではアンドラに行こう』

『アンドラに、何のために?』

『何だと、パストーラ、働くためだ!仕事を探しにアンドラに行く村人は沢山居る。あそこではタバコ畑で多くの人手を必要としている、私はこの糞たれ国と違って支払いは良いと聞いている』

『では治安警備隊は?彼らは小さな村にまで兵舎を置いている、そして絶えず街道をあちこち動いている。あなたは徒歩でアンドラに着くのに、どの位かかるか知っていますか?アンドラが何処にあるのか良く知りませんが』

彼は持っていた地図を出して私に見せた。アンドラは小さな国だが、国は国だと私に云った。そこで私は何処を通って行くか、どの位かかるかを計算し始めた。

『少なくとも2ヶ月半はかかるでしょう』、と彼に云った。

『今は4月だ、だから夏までにアンドラに着く、もっと労働者を必要とするときだ。私の計画をどう思う?』

『危険だと思います』

『そうか、では一人で行こう。君は野ウサギのように怯えてここに止まれ。私は一人で上手くやって行ける』

私は暫らく考えた、彼と一緒に行くかどうかを決めなければならなかった。そこで彼がアンドラに行きたいのなら一緒に行こうと彼に云った。

 

我々は1952年の4月の終わりに出発した。殆んど雨は降らず思ったよりも前進できたので2ヵ月後に着いた。6月18日に我々はアンドラに着いた。

フランシスコの云う通り、タバコの葉を束ねて倉庫に入れるのに、多くの人手を必要とするのは事実だった。我々は季節労働者として雇われた。私は1ヶ月600ペセタで雇われ、フランシスコは数字に強いので少し多かった。

一番素晴らしかったのは、治安警備隊が我々を追っていないことだった。我々は書類を持っていなかったが、誰もそれを求めなかった。彼らが欲しかったのは労働に適した力のある男たちだった。

しかし10月初旬に我々も他の人たちも路傍に放り出された。仕事は終わってしまって、もう人手は要らなくなったのだった。

 

フランシスコは云った:

『はっきり云って私は少し飽きあきしていた。指示を受け、全てを甘んじて受け入れることが好きではない。そのうえ、我々は自分の国に居るのではない、自分の国が本当に懐かしい』

『だが我々の国では、我々は望まれていません』

『とんでもない話だ!フランコ派も、ファランヘ派も、民兵も、ファシストも、治安警備隊野郎も我々を嫌っている、しかし奴らは国ではない、奴らは正当に自分のものであるかのように、国を我が物にした盗人だ』

『だが、彼らは支配している』

『支配しようと、支配しなかろうと、私にはどうでも良いのだ、私の国はスペインで、私は他と人間と同じようにスペイン人だ』

国がすごく懐かしいということは、彼は戻ることを考えていることを意味する可能性があった。危険なことだった。 【続く】


Lauburu | スペインで | 07:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

パストーラのモノローグ〜2

かなりの時間、私は道を監視していた、そして使用人がやって来るのを見たが、彼の後ろには農民に変装した治安警備隊員が4人ついて来た。私は2人がハイメの姉妹でもあるかのように女の服を着ていたが直ぐに彼らを見抜いた。誰が女で誰が変装しているか、他人の目は誤魔化せても私は駄目だ。


そしてハイメを殴りつけて失神させてから立ち去った。


7月16日に、我々は印象的なことを行った。我々は同志5人で、トルトッサからラ・アルデアへの街道に出るために山を離れた。


同志たちは私に《革命的行為》を行うといった。街道でトルトッサの農民の荷馬車が通り我々は停止させた。農民を降ろしてロバを外し、誰も通れないように荷馬車を通りの真ん中に押していった。


車が来て、銃を持つ我々を見て運転手が立ちすくんだ。3台の車と何台かの自転車が来た。彼らが停止すると我々は金を剥ぎ取った。


この任務のリーダーは、そこに長く留まるのは危険なのに予想外のことを行った:政治思想を最も良く知っているフランシスコに彼らをアジれと云い、フランシスコは、フランコの時代はもう僅かだと彼らに話し始め、諸君が行わなければならないことは、自らを政治的に組織化し共産党に入ることだと云った。

その後で彼は叫んだ:

『共和制万歳!自由スペイン万歳!フランコに死を、国際ファシズムに死を!』


そしてフランシスコは背嚢から政治宣伝の用紙を出して、私が銃口を向ける人たちに分配した。


最後に、リーダーは2台の車にガソリンをかけて火をつけるように命じ、煙が黒く昇ったとき撤退の命令を出した。


フランシスコは私に時々正義や労働者の平等や雇い主の搾取に関する共産主義の理念を教えた。彼は私に云った:

『これら全てを君は正しいと思うのか間違っていると思うのか?君は何も云わずにひたすら私の云うことを聴いているだけだから』


勿論、私は正しいと思った。我々全ては平等であること、地主は他人を搾取しないこと、そして僅かな金でロバのように働かせるのは良いことでも正しいことでもないこと。私の頭に浮かんだことは、フランシスコは何のために私に話すのかが分からなかった。それはこの時まで私が生きてきた場所では、そのような経験はしなかったから。

ある日、私に共産主義の理念を話したときに、彼は云った:

『君が少し勉強するために、我々が持っている小冊子を渡す時期が来たと思う』

私はエル・カタランが私が読み書きできないことを彼に知らせていると思っていたので赤くなった。そこで彼に云った:

『私は読めません、フランシスコ、学校には行きませんでした』

彼は私の顔を見つめて訊いた:

『一度も、子供のときに一日も?』

『何時も家畜を面倒見て働いていました』

『ほら、そうだろう、パストーラ?君は我々が何時も云う例だ:搾取された人間、それが君だった』

私は彼に云った:

『さあ、フランシスコ、能書きは止めてください!私は読めない、だから私に渡そうとする本はあなたが持っているほうが良いでしょう』

彼は直ぐに手を私の肩に置いて握り締めた:

『落ち着けよ、同志、ルーベンが君に読み書きを教える。ルーベンは忍耐深く、他の人間にも教えている。君は読み書きが簡単なことが分かるだろう』

 

フランシスコはルーベンと話し合い、私の任務がないときに教えた。

そう、私が全ての文字を学んだ日に私は歓びで泣きたくなった。

ルーベンはフランシスコよりも温和だった。ルーベンは真っ直ぐな人間だった。エル・カバニルの農夫を殺した警備隊員を殺す任務で、彼は神経過敏になって事件には関係のない警備隊員に発砲した。

しかし同志たちは《警備隊員は所詮警備隊員だ、もし善良な警備隊員がいれば、とっくに死んでいるさ》と彼に云った。誰にでも間違いはあるさと。

ルーベンは私が読むことを素早く覚えたと云った。看板に書いてあることの意味が分かるのは素晴らしいことだった。ルーベンは私に活字体の文字を教え、手書きの文字も教えるといったが、その時が来ることはなかった。

彼は善良な若者で、そのうえ勇敢だった、多くの危険を冒した。そしてあの警備隊員を間違って殺した。

彼が部隊のリーダーになったとき18歳だった。彼は生まれたときから手に持っていたかのように武器を扱った。彼は利発で教養があった。何時も本を読み、毎日我々が行ったこと、起こった重要なことを日記につけていた。

彼は知っていること全てを自分で学んだ、彼も学校には行っていなかった。

 

ある日、彼は子供の頃からの人生を私に話した。マキでは何処で生まれたかを云うのは禁止されていた。彼は命令を無視してブルゴスの出身だと私に云った。

彼の父親は鋳掛職人で、理由は分からないがブルゴスにやって来た。母親は病死していた。父親は村から村へと肩に工具箱を担いで歩き、生きるために鋳掛をした。6歳か7歳のルーベンは父親が連れ歩いた。人は彼をボールや金物を修理する仕事にちなんで《鋳掛屋》と呼んだ。

8歳のある日、ルーベンはトッレ・エル・カトレの農場に行ったとき、鋳掛屋が農婦の前で彼を殴打するので彼女は同情した。彼に殴るのを止めるように云い、ルーベンを今後は面倒見ると云い彼に食事を与えた。父親は子供から自由になり、食べ物や彼に買う僅かなボロ着を節約できるので大喜びで彼を手放した。

 

ルーベンはある時期はその農家で成長した。その後、トッレ・エル・カトレの農婦に大きな負担がかからないように、他の農婦たちが彼を家に連れて行った。そこで彼はある時期は此処で、他の時期はあそこでと、何時も藁置き場で眠り、何時も施し物を食べ、何時も命じられた仕事をしながら16歳か17歳までそこで過ごした。

そのときマキの何人かの友人を知って彼らと立ち去った。

 

哀れな男で非常に孤独だったに違いない!…

私も孤独を知っている、しかし少なくとも彼と違って私は羊を持ち仕事があった。

私は彼が好きになったし、彼もまた私の価値を認めていたと思う。決して私をパストーラとは呼ばなかった、何時もドゥルッティーだった。

 

ある日、私が間違わずに本の一部を彼に読んだとき、彼は半分狂ったように飛び上がり始めた。《お祝いしよう、ドゥルッティー!》。彼は葡萄酒を探しに行き、私に乾杯した:《同志ドゥルッティーは全ての本を読むようになるだろう、もう教養のある人間になった》。

もし私を知っている人がこれに気付いたら、信じることが出来なかっただろう:《テレソが字を読めるって!誰が教えたのだ?》。ルーベンは手に葡萄酒を持って大声で叫んだ:《民主的教養に万歳、もう抑圧は沢山だ!》。

 

その4日後に彼は1人の警備隊員の殺害の責任を任されたが、最悪なことは死んだのは彼だった。

ルーベンは父親が彼を捨てたときに育ったトッレ・エル・カトレの農家の近くのエフルベで殺された。

彼はエル・ナノと行動した。彼らは食事を求めてその農家で足を止めた。勿論、その農家の主人たちは彼を知っていて挨拶し、彼らにパンやハムを与えた。

立ち去るときルーベンは彼らに忠告した:

『我々が此処に居たことを知らせないように』

そのとき、彼の歳くらいの若者が彼に文句を云いにやって来た:

『我々を巻き込むとは何ということだ!この辺にマキが来たら、我々は知らせなければならないのは知っているだろう』

ルーベンはひるまなかった:

『お前たちが我々を告発してみろ、私は戻って間違いなくお前らを殺す』

 

勿論、彼らは告発された。

警備隊員がその農家に行ったが、彼らは姿を消していたので何も出来なかった。

しかし悪いことに農家の周辺には警備隊の小部隊が、彼らを探すためにではなく休むために居たことであった。彼らはエフルベの農家に泊まっていた。明け方に伍長が用を足すために野原に出た、そして靄の中にアーモンドを採る男を見て、言葉もかけずに殺した。

哀れなルーべンは伍長が彼を殺そうとしているのに気がついた。エル・ナノも丘のうえに居て助けに行くことが出来ず、上方から伍長がルーベンを殺して、岩の上にルーベンが残していた自動小銃を取り上げるのを見た。

ここにルーベンの過失があった。エル・カタランが云うように、全ての過失は報いを受ける、だから訓練は厳しく行われなければならない。尤もだった。

 

そのとき、リーダーのエル・カタランは激怒し始めた:

『お前らはアマチュアだ!キャンプを出たら武器を離しては駄目だ、絶対に!』

彼はリーダーなので泣くことが出来ずに怒ったのだと私は思うが、泣きたかったに違いなかった、それは彼の目を見たときうるんでいたからだ。

『ルーベンはつけていた日記を持っていたに違いありません』と私は云った。

カルロス・エル・カタランは頭に手を持って行った。

『事実だ!我々の協力者の名前が書いてある。彼の不注意で何人か余計に死ぬだろう。立ち去れ、全員立ち去れ、もう此処には用はない!』

 

私は彼がこれほど激怒したのを見たことがなかった。私はもう書くことを学ぶことはないと思った。また私はそこから生きて去れる者は僅かだと気がついた。

ある日思いもかけずに、私が死ぬ番になるかも知れない。

少なくとも、その日までに、マンガス中尉や、エル・カバニルの主人を殺したクソ野郎や、ルーベンを殺した男を私のところに連れて来るように。

もし彼らでなければ他の奴でも良い。結局は同じことだ。

 

この時期が過ぎると、スペイン共産党はカルロス・エル・カタランをフランスに召還した。彼が去る前に我々に与えた最後の命令は、キャンプをカネ・ロ・ロイグとバジボーナの断崖の間にあるサリーナスに移すことだった。

 

そのとき治安警備隊の大捜査網が始まったので、我々はサリーナスのキャンプを撤去しなければならなかった。我々はセルボル川の水源に別の小さなキャンプを設立したが、23地区に残る人員は27地区と合流せよという命令が届いた。

サトゥルニノと私を除いて全員がバレンシアと先に行き、我々はラ・セーニャとサンタ・バルバラの辺りに残ったが食糧が尽きてしまった。畑で見つけたものを食べ、見捨てられたと考えるようになったが、最後にはフランシスコとトマスが我々を探しに来た。

 

良いニュースはなかった。多くのゲリラが死んでマキは士気を挫かれた。治安警備隊はゲリラの参謀本部を攻撃して、武器やカネや重要書類を持ち去った。

バレンシアとルーカスは殺されたと云った。私は血の気が引いた。私はバレンシアと戸外で野宿したことを思い出した。私にルーベンが殺されたときと同じ思いが甦った:我々の誰もが残らないだろうと。

 

おそらく、プロレタリアは尊厳と自由を見出すだろう。おそらく、数年のうちに皆は同じ権利を持ち、搾取する雇い主は存在しないだろう。しかし、勿論、山に居る我々はこのことを見ることはないだろう。全員が死ぬ、全員が背中か頭に銃弾を受ける、全員が共同墓地に埋められるか断崖から投げ落とされる。

同志を思い出すことや彼らが勇敢だったことを思い出すのは無駄だ、もっと後で、思い出す人間もまた死んでいるだろうから。

 

多くの死のあとで、フランシスコは一層信頼できる友人になった。彼はプロレタリアについて話し、私が知っている全てのことは共産主義が教えてくれた。

 

1950年3月にフランスから、スペイン共産党の指導者たちの最後の指示を持って7人のマキのグループが着いた。

彼らとともにホセ・グロスも来た。彼は地区の数人のリーダーを更迭しに来た。グループの組織の書記のフランシスコもまた更迭するつもりだった。

グロスはもう多くの人間が死ぬべきではないので、我々はもっと安全な別の方法で事を為すことを始めなくてはならないと云った。

最後に、彼は一般集会を召集した。そこで彼はゲリラの時代は過ぎ去ったと云って皆を驚かせた。

党は撤退を命じ、山に居る全員は少しずつフランスに移動して行った。

一方で、我々が撤退してマキを終結すると云うことは、我々が治安警備隊とフランコ主義者に敗北したと云うようなものだった。

 

6月にグロス氏とフランスから来た連中は、我々の地区に姿を現したが、当時の我々のリーダーはミリタール・ルビオだった。

ミリタール・ルビオとグロスの間で最初の口論があった。

グロスはルビオに、スペイン共産党首サンティアゴ・カリージョは党がマキに派遣した人間は全て死んだので、レバンテ・アラゴン地区ゲリラ部隊の指揮をグロスが執れと命じたとルビオに云った。(*注:1915〜)

ミリタール・ルビオはグロスに、此処では皆が生きている、此処では人々が彼を支持しているので指揮権を手放す積りはないと答えた。

グロスは、出口のない面倒に首を突っ込む可能性があると気付いたのと、事務所で命令を出すのと、山に入って人々に好みもしないことをするように云うのとは別物だと気付いたので前言を撤回した。

 

その時のある明け方、私が眠っているとき、音も立てずにフランシスコが来て私に云った:

『良く聴け、君にも関係があることだ。少し前にルビオとグロスが私と話したいので私を起こした。ルビオは私に、おそらく無意識に私がモレーナスの農夫を仲立ちにして、治安警備隊に情報を流したと考えている。

グロスは、私が敵に情報を流したなど信じられないし、私を非常に信用していると云い、書類を取り出して、彼の私への信頼を示すために、君と私が23地区にその書類を持って行き、エドゥアルドにそれを渡して戻れと私に云った。

グロスは我々がこの使命から戻ったら、あの作戦での同志リカルドの死の状況について我々を尋問しなければならないだろうと云った。君は事件を覚えているか?』

勿論、我々も関係がある任務で、治安警備隊に殺された同志リカルドを私は覚えていた。

 

フランシスコが云った:

『俺は逃げる、奴らは何かを企んでいる臭いがする、この任務から俺は戻らない』

『でも、それは脱走だ!あなた自身、私に何度も脱走は世の中で最悪だと云った』

『そんなことはどうでも良いのだ!君は彼らがゲリラ運動を解体して、それから手を切りたいと望んでいるのを知っている!この下らない任務から生きて戻った場合に、我々を待つものは何だろう?遥か昔に起こった件の裁判、そして我々はそれには何の関係もないのに、罪人が必要なので我々を非難するのだ』

『何処に行くのですか?』

『君と俺は、独立マキとして行く。食糧の保管所が何処にあるかを私は知っている、食べ物には不足しない』

 

私は一瞬黙った。それは脱走する者は卑怯者だからだった、私は卑怯者ではなかった。しかしフランシスコの云うことも理があった:我々が犯罪者であるかのような裁判、何故だ?私は誰も裏切ったことはない、そして私は同志リカルドを殆んど知らない。

 

しかしこの土地の外で私は何をするのだろう?羊の群れの世話をすることを知っているだけだ。おそらく、彼と行くのは良い考えだ。その後はその後だ。

しかし、とりわけ重要なことは、フランシスコは唯一の友人で、他には居なかった。私が持っていた友人たち、私を真実愛した同志たちは殺された。私は彼に一緒に行こうと云った。適切な判断だったかどうか今は分からない。私のような人間は行くところや、人生計画をそんなには持っては居ない。私はついぞ持ったことがない、本当だ、朝に始まり夜に終わる日々を生きて来ただけだから。

 

翌日の午後、我々は任務に出る用意をした。1950年10月7日だった。フランシスコは私に我々の人生暦で重要だから日時を覚えておくように云った。

 

我々は自由だった、しかし何処に行くか、我々にとって何が良いことなのかは頭に浮かばなかった。誰も命令せず、仕事もないとき何をするのか?

我々が最初にしたことは、エフルベの丘に登って、部隊が持っている食糧の備蓄を取り出すことだった。今は食糧は我々のものだった。しかし、マキのもの全ては、農民や共産主義やスペインに自由を戻すためのものと何度も云われたので、自分勝手にすることは悪いことのように思えた。

 

ある日フランシスコが私に云った:

『過去はもう過ぎ去った、我々はもう生きてきたようには決して生きられない。我々に将来があるかどうかは分からない。我々の手にあるものは現在だ、それの意味するところは、生きるために、食うために、寒くないように、捕らないために闘うということだ』

しかしそうは云っても、フランシスコの身内の状況は私よりも悪かったので、それは容易ではなかった。私の過去はもう過ぎ去っていて、残したものは羊だけだったが、彼には家族が残り、家族と二度と会えないだろうということだった。妻にも娘にも母親にも、誰にも。

あたかも彼らは死んでしまったかのように、より正確には彼が死んでしまったかのように。

 

数日後に、彼は家族に会いにカステジョーテに下りると話し始めた。過去を忘れるのは容易ではなかった。しかしどのようなことをしようと、カステジョーテに近づくことは出来なかった。あそこは治安警備隊で溢れていて極めて危険だった。

『フランシスコ、こんなに多くの治安警備隊がいてはどうしようもないので、君の家族に会うのを忘れなければならないと思う。もし我々を捕らえたら、我々は直接墓穴に行くだろうが、君の家族にもまた傷つけることを良く考えて欲しい。今のところはそのままにしておこう、もっと後にしよう』

『そう、もっと後にしよう』

私は彼に同情した。心の中では我々にとって《もっと後で》は何の意味もないことを知っていたからだった。

 

フランシスコは日増しに少しずつ落ち込んで行った。

そこで彼は《経済的打撃》を与えなければならないと考えた。私はもし行動しなかったら、彼は落ち着かないのだと思った。もし手をこまねいていたら、家族やこれから起こることについて、彼が考えを巡らす時間が増えるからだった。

そこで彼はヒネブローサにあるトッレ・エル・カトレの農家を襲う計画を立てた。それは1950年11月だった。彼は私に云った:

『何故他の日ではなく、今行わなければならないのか君は分かっているか?それは、1年前にファシストが同志ルーベンを殺したからだ』

 

我々は6時半頃にその農家に着いた。フランシスコは自動小銃、私は旧式だが丹念に油を差した小銃を持っていた。夜になって、《静かにしろ!》とフランシスコが怒鳴った。農家にいたのは父親、長女とその夫と、14歳と10歳の2人の子供だった。

『長男は外の畑です。娘は町にいます、今日は戻らないでしょう』と女婿が答えた。

私は長男を探しに出た。ラバを木に結び付けている彼を直ぐに見つけた、15歳を少し過ぎた若者だった。

 

フランシスコが全員に云った:

『冗談抜きで、いま直ぐに40,000ペセタ渡してもらいたい』

父親は一歩前に出た:

『此処にはありません。町の家には幾らかはあるでしょう、それほど多くはありませんが』

『そうか、ではお前の妻がカネを取りに行け。明日の3時に我々にカネを持ってくる場所を決めよう。我々はお前と子供を連れて行く。カネを持って明日時間通りに来なかったら…分かるな、この家族で2人の死者が出るだろう』

 

そのとき長男が家からこっそり逃げ出した。

私は追いかけた。私は彼に追いつくところだった。しかし彼は私よりも若く、石も草むらも穴も彼にブレーキをかけなかった。私は追いつけずに立ち止まって地面に膝まづいた。

もう我々に起こることは分かっていた。

彼は治安警備隊に知らせる。一刻も無駄にする時間がなかった。私は全力で農家に戻った。

『子供は逃げた。警備隊が駆けつける前に立ち去ろう』

しかし、彼は彼ではないかのように、心の中で怒りが彼を蝕んでいるかのように血が上っていた。

『あの壁の前に行け、子供たちもだ!』

フランシスコは、将軍が兵士に語るときのように乾いた、しわがれた声で云った:

『1951年11月の今日、我々は丁度1年前にファシストに殺された同志ホセ・ゴンサレス・ロペス、ルーベンの復讐をする』

彼は家族に自動小銃の掃射を始めた。壁の欠けらや、椅子やテーブルの破片が飛び散った。全員が、子供も、人形のように床に倒れた。フランシスコは遠くから彼らを一瞥して小さな声で云った:

『もう終わった。さあ、此処から去ろう』

 

私はあの時に彼の頭によぎったことは私は分からなかったし、今も分からない。

私は彼と議論するために、最小限のことは云いたかったが何も云わなかった。私は子供を殺す人間を見たことが無かったし嫌だと彼に云えることが出来たにしても。

本音を云うことも口論することも、我々が反目を始めたら、全てが滅茶苦茶になるだろう。それは我々の本意ではない、本意は生き延びることだ。

 

丘の隠れ家から我々は治安警備隊員が通るのを見た。大人数だった。私は彼らが執拗に我々を探しているのは分かっていたが、事態はそれほど重大だとは想像しなかった。フランシスコはこれほどの大騒動を起こしたことを喜んでいるようにさえ見えた。

 

重要なことは此処から遠ざかることだった。我々は多くを話さなかったがフランシスコの頭から家族や子供や母親が離れないのを気がついていた。

今回我々が行ったことに責任を取る必要があるのは明らかだった。もし彼らが我々を見つけたら、どちらかが生るか死ぬかしかないことを私は分かっていた。

 

間もなく、その通りになった。ある夜、我々はシエラ・デ・モネグレルで休息のために止まってテントを組み立てるために荷物を解こうとしたその時、我々は茂みの中の声を聞いた。

我々は岩の陰に飛び込んだ。数人の人間の影が見えたが、月明かりがないので彼らを識別は出来なかったが、彼らは真っ直ぐに我々の方にやって来た。より接近したときに、フランシスコは銃撃を始め私も続いた。突然、私は短い低い、傷を負った動物のような呻き声を聞いた。

『当たったのか?』

フランシスコはそうだと云った、しかし自動小銃を撃ちまくるのは止めなかった。

『此処から去ろう!』、私は彼に怒鳴った。

『俺の持ち物を置いて行きたくない!』

『それは忘れろ、他の物を手に入れれば良いのだから!歩けるか?』

『肩をやられた』

『では、左に行け、私の前に出ろ、君を掩護するから』

 

明け方近くまで歩くのを止めなかった。今回は難を免れた。

 

僅かな明りで我々は肩の傷を良く見た。弾が中になかったので重症ではなかったが、治療しなければならなかった。私はアルコールは持っていたが、薬品はフランシスコの持ち物に残されたままだった。彼の開いた肉にアルコールを振り掛けるたびに、可哀相に目から火が出た。そのときフランシスコが話し始めた:

『パストーラ、傷は簡単には治らないので、我々は急いで出かけよう。包

Lauburu | スペインで | 08:26 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

パストーラのモノローグ〜1






…1956年…

 

この2年間、私は人の声を聞いていない。人が私を聞きつけるかもしれないので歌を歌うことも危険だった。

だが、私は山の中で生きる術を知っている。

何時も同じベッドで眠ることは素晴らしいが、もう私はそれがどのようなことであったかさえ覚えていない。

子供の頃、私は女の子だったが、今は成人男子だ、本当の成人男子だ。

私はこの2年間、誰にも会わないところに隠れて過ごした。

 

この2年は大変な時間だったが何時も一人だった。実を云うと、私はマキで仲間を持った。しかしその仲間のフランシスコが殺されてから私は一人になり、誰も知らない場所から去るのが難しいことは分かっている。

 

人々は私を害獣のように追っている。しかし私は狼でも野獣でもない、そして誰も殺したことはない。私は人間だ、私は成人男子だ。私は女であったことはどうでも良い。人々が獣のように追いかけるときには女でも男でもなくなる。

 

私は人々が何にもまして生きるのを望んだのを見た。私もまた生き続けたい。誰も私が戻るのを待っていないが、私は生き続けたい。私は死ぬのは怖くないが生き続けたい。

 

この2年私はどのように食べてきたのか?私は教育はないが食べ物を探すことは出来る、私はこの地区で、この山中で育った。

土地を良く知っていれば何時でも何かを見付けられる。

私はイノシシのように逃げ続けながら、人生の全てを山の中で過ごすこともあり得るだろう。

 

ある人たちは、山にこもる前の私を愛した、そして小さな子供は私を愛した。

しかし極めて厳しい時代だった。私は汚いことをしたが、他人もまたそうだった。私には戦争は未だに終わっていない。全てが厳しい大いなる不幸の時代。

時々私は投降を考えたが、それは彼らがしたいようにするだけだから、その考えを引っ込めた。

 

テレソ、テレソ、お前の脚の間には何があるの、テレソ?

女の子のテレサ、力持ち女のテレソータ、男の子のテレソ。

テレサ・プラ・メセゲール、お前は何なの?

私の6人の兄と姉たちは、私が小さな子供なのに、誰かが私を殴り殺さなければならないと云ったかのように私を殴った。《この赤ん坊、何と不快な!お母さん、彼女は何処から来たの、何故我々と縁戚関係があるの?》

 

最初、私は泣いた;しかし後で黙った、そして誰も私を見ない片隅に入り込んだ。

気候の良い9月には私は時々パティオに行き、小麦の麻袋の上で寝た。私はその臭いが好きで、そこに一人でいるのが好きだった、そして明るい星で満ちた空を見るのが好きだった。

 

父は私が3歳のときに死んだ。雨が降って壁の石と土が崩れて彼の上に落ちた。私の姉のマリア・アントニアが私の面倒を見なければならなかったのに、彼女は私を殴った。その後に彼女は死んだ。また可哀相な兄のホセも死んだ。

兄のフアンは数年後にフランスに移った、私は彼と一緒に行きたかった。フランスは私が一番住みたいところだった。私は近くまで行ったが、正規の書類がないと、そこでは働けなかった。何時か私もフランスに行こう。

 

哀れな私の母は善良だった。村では誰も学校に行かず読み書きが出来ないので無知だった。此処では読み書き出来る人は殆んど居ない。

母は寡婦になったとき、一番小さな子供が私で3歳だった。生まれたときから皆は私の生殖器が正常ではないと気がついていたが、町の登録簿に女と記載した、そして男か女か誰も良く分からなかった。

 

母は農夫だった男の7人の子を持つ寡婦だった。何が出来ただろうか?彼女は人がやりたがらないことで働き始めた。母は他の人の家に石灰を上手に塗った。またカネのために町の洗濯場で衣服を洗った。これは水が凍てつく冬には最悪で、手はしもやけで腫れて後にはコップも持てず床に落した。

 

気の毒な父は私を見て物凄く恥ずかしかったに違いなかった。母親たちは子供たちをありのままにとるが、父親たちはあるべきではない人間、デフォルメされた人間を恥ずかしく感じるからだ。

 

冷たい水と石灰で腫れた手の母は、私の姉妹がこれ以上私を殴らないのを願って、善良な人たちのマス・デン・テナ家に行って、私を暫らく引き取るように頼んだ。彼らは了解し、私はそこに行った。

 

最初、私はマス・デン・テナ家の小さな子供の世話をした。私は10歳位だった。子供はディエゴと云い私が大好きだった。

マス・デン・テナ家では私は快適だった。最初は母が恋しかったが後では違った。その上姉妹たちは居ないので誰も私を殴らなかった。11歳になったとき雇い主は羊の面倒を見るために私を山に送った。時間が経つにつれて私は女羊飼(パストーラ)になった、そしてパストーラでいるときは何時も幸せだった。

 

私は暖かい夜には戸外で寝るのに慣れていた。羊たちは村の子供たちよりずっと良かった。私を笑う子供たちも居なかった。

私は全ての仔羊を1頭1頭全部識別できた。

ある群れの羊たちが他の群れと混じって、どれがどれだか分からなくなったとき、私に羊を仕分けするように多くの農家が頼みに来た。家畜が分からない人には羊も山羊も全てが同じに見えるが、私は違う。

 

私が15か16歳のとき、私は5人の男を一緒にしたような力があった。私は太ってはいなかったし、当時は棒のように痩せて背が高い女の子だった。時々大きな羊を担がなければならなかった。80キロの羊を担いだ。

 

私には1年に12日の休暇の日があった。私はその日が好きで他の家畜を見に行った。太陽が出ていれば草の上に寝そべり、低い山に居るので麓まで走り下りた。バルで鰯の空き缶を貰って山に持ち帰り、岩の上に置いて石で命中させて遊んだ。

また日曜日には、マス・デン・テナの人々は私にチョコレート粒を1オンス呉れた。一気に食べたくなかったので少しずつ食べたが、時には手の中で溶けて私は手を舐めなければならなかった。

 

私は山の中では羊の群れと一緒で、私の身体は石のように硬くなった。

私は動物について学んだこと全てを墓場まで持って行こう。読み書きは出来ないが誰よりも動物のことは知っている。

 

若いときに私は女性として背は高く痩せていて肉は締まっていた。もしドレスを持っていたら良く似合っただろうが、私が持っているのは黒くて長いスカートと黒いブラウスだけだった。喉仏が目立ったのでブラウスはハイネックだった。

私は一生孤独だと分かっていた。私は自分を男と感じていたのだろうか?

歳をとったとき確かに私は自分を男だと感じたし、皆が私を女と見ているのが辛かった。

人々が私を恐れたのは、私は孤独で、大柄で、力があり、外見が半分男で半分女であることだった。

しかし、少なくとも私は山では女羊飼であり、私の羊と一緒に幸せだった。

 

私は何時も人と一緒にいるのは好きではないが、休みの日にたまに一緒するのは好きだった。何時もロッセルの市場に山から下りて行ったが、それは家畜市だけではなく世の中の色々な物の市だった。

 

ロッセルには大好きな友だちで4人の女の子を持つエミリアが居た。彼女は何時も私を心配して貴重な助言をした:

『あなたは面倒に首を突っ込まないように。人が云いたいように云わせなさい、何時も自分のことだけを考えなさい。あなたは素晴らしい女羊飼で仕事が途切れることはありません、それが一番重要です。一番悲惨なのは食事や寝る場所がないことです、他人などはどうでも良いのです』

エミリアは私の人生が普通の女性とは違うのを気がついていた。

 

人々が私を種に嘲笑するのだが、私が男か女かという何時も同じ冗談の何処が楽しいのか私には分からない!世の中に他の楽しみは無いのだろうか?

私はエミリアと話をするうちに、世の中には全てに善良な人間や、全てに悪行な人間は居らず、それらを分かち持っているのだ、そして身に降りかかるものには耐えるほかはないことを理解した。

 

村の祭りは楽しかったが戦争で全てが終わった。私は羊と一緒に山に居たので戦争の帰趨は何も知らなかったが、共和主義者も国民戦線も同じように私を扱った:大部分の人は私を奇妙な虫のように眺め、小数の人だけが私の友人だった。

私は女だったので徴兵もされず、戦いもしなかった。しかし銃後にいてフランコ軍の傭兵のモーロ人の狼藉に我慢が出来なかった。ある日、2人の北アフリカ人のフランコ軍の傭兵が女性を暴行しようとするので半殺しの目に会わせて叩き出した。

 

戦争中に人々は多くの労苦に耐えた。私はあちこちの農家で働きながら羊と山にこもった。

戦争中には何処に居ようとも、泣くのは女性たちだった。多くの女性は夫や知人の死を泣いた。それを聞いて私は心臓が縮み上がった。

女羊飼いの他に私は他の仕事もした。羊毛を紡ぎ、私はもっとペセタを手に入れた。戦争後はまた、薪を集めたり、山でそれを探したりするのに私に声が掛かった。

私はもっと重要なものを手に入れたかったので喜んでそれを行った。私は貯蓄しなければならなかった。戦争が過ぎて数年後の1944年、私が26歳のとき私はかなりの金額を貯めた。

 

何故私がそんなに貯金したのか。私は生まれつき《兎唇》と呼ぶ障害があった。それは何時も私にコンプレックスを感じさせた。私の友人のエミリアがロッセルの医者が《兎唇》の手術が上手だと私に教えた。手術の金を集めたとき、私は彼に会いに行った。フアンと云う名のバレンシア人だった。

手術に私は大変満足だった。私は今まで鏡を見たことはなかったが、最近、市場で買ってきた鏡で唇を見続けた。

 

戦争後、私は何時ものように羊と働き続けた。しかし全てに活気がなかった。農民の多くの男たちが《赤》として刑務所に入れられたので、女たちは力が必要な仕事にロバのように働くのを余儀なくされた。

私は何時もバジボーナをあちこちと移動した。私は場所を変えるのは厭わなかったので仕事には不足しなかった。また私は男と同じ力を持っていたので人々は私を雇った。

そのうえ私が働き物だと云う噂が流れた。男が不足して私が男と同じことが出来て仕事を良く知っているので、農民たちは私に仕事を与え、私は全てをこなした。

その時代に私が働いたように働ける人は少なかった。羊の群れと一緒に居る他に、私は山で薪を集め、料理したり温めたり出来るように農家まで薪を運んだ。季節には畑を耕し、穀物を運び、ラバで穀物をボイシャールやラバトの製粉所に持って行った…私のように疲れも知らずに働ける動物は他に居なかった。

 

こちらからあちらへと行くのは、ポブラ・デ・ベニファッサの農家エル・カバニルが私を雇ったときに終わった。彼らは多くの耕地を持っていた。

私はその耕作を手伝ったが、とりわけ羊の面倒を見た。その家族の男たちは皆な《赤》として刑務所に入れられていた。

私が彼らと出会ったのは1944年、私が27歳の時だった。私は何時ものように彼らに俸給と年間に12日の休暇を要求した。私は小金を貯めていった、そして自分のために15頭の羊を買った。その農家の人たちは非常に善良で、彼らは私が普通2人の男を必要とする袋を一人で担ぐので大変満足した。そのうえ私は女なので、彼らは私との問題がないのが分かっていた、それは女しか居ない農家で男の労働者を雇うのは、時に奇妙なことが起こったからだった。

 

その数年に私は時々マキに会った。私が一人で山に居る時に彼らは私に会うために来た。私は怖くはなかったし、怯えさせることもなかった。

その頃、彼らは山の中でこそこそと生き続けようとしているので、私は彼らの政治には興味はなかった。

また私は彼らを告発しに行くつもりもなかったし、彼らは私に何の危害も加えなかった。彼らは山の中を孤独に歩き廻るのでお喋りをしたがったし、私も同様だったので少しの間一緒するのは好ましかった。

このようにして私たちは喋り、笑い、一度ならず持ってきた葡萄酒の酒袋に私を招待した。少しづつ私たちは友好関係を深め始め、彼らはラ・ポブラでの買い物を私に頼んだ。

彼らにとって常に危険な買い物という用事を私がしたので彼らは喜び、それに対して僅かながら対価を私に払った。

彼らはスぺインで起きていること世界に知らせるために独裁制と戦うフランコの失脚を狙うゲリラだと私に云った。

 

その後ゲリラが一層組織化され、1948年になって、以前に会ったことがない人たちが私の家に来た。彼らは《夕食をさせてくれ、パストーラ、長い間食べずにいた、暖かなものが欲しい》。私は彼らにスープ、卵、少しの豚の脂身を料理した。

 

このようなことが起こっている一方で、私は普通の生き方をした。

私はフランコが政権をとってからは《ソシエダー》と呼ばれたシンジケートで楽しく日を過ごしていた。そこで私は羊飼いや農民と一緒になった…トランプをしたり少々のコニャックを飲んだりした。私は女だったが仲間に入れてくれた。

 

ある年、ボイシャールのサン・ベルトメウの祭りには、ボイシャールには司教区がないので何時もポブラ・デ・ベニファッサの司祭が来てミサや色々なことを行った。教会で祈祷し、為すべきこと全てを行った後で司祭は祭りに加わった。広場では司祭と私の外は皆が踊っていた。私はコニャックを少々飲んでいて酔ってはいなかったが元気一杯だった。

そこで私は興奮して司祭に云った:

『モセン・ヴィセン、あなたと私が踊りの輪に入るのはどうでしょう?』

少し年をとった善人の司祭は怒りもせずに笑いだした。そこで私に答えた:

『あなたと私は一緒に踊れません、テレセータ、両方ともスカートをはいていますから』

私は大笑いして司祭に云った:

『私はズボンもはいています』、そして恥ずかしげもなく私は服を上げて、子供がはくような短いズボンを司祭に見せた。近くに居て会話を聞いていた多くの人たちは大笑いを始め、女たちは叫び、皆は手を打ち脚を叩いた。可哀そうな司祭は当惑して繰り返した:

『ああ、テレセータ、あなたはとんでもない』

 

私は自分の人生を考えている。幸福だったと云えるだろうか。私はそうは思わない。それは私は女たちが持ちたがるものを全く持っていない:夫、子供、家…

私は持てないことが分かっていた。

 

私は極めて孤独だった。家族は私のことを誰も知りたがらなかった。しかし私自身を考えると、良いこともあるのに気が付いた:力、健康、仕事、少々の貯え、私を嘲笑しない小数の人々の尊敬。

 

私は生殖器の奇形で生まれたが、母が私を初めて見たとき、私にとって女を装うほうが良いと考えた。そして長い間、私は自分自身を男と感じたが女のままでいた。

私はあまりにも人生を愛し、《あの午後》まで生き生きとしていた。私は周りの皆が私に云った《あの午後》のことを思い出した:『死んだほうが良くはない、テレサ?』

私はそうは思わなかった、それは私は生きること、羊と山に登ること、夜明けを見ること、コニャックを少し飲むこと、祭りで冗談を云うことを続けたいからだった。

死ぬのはダメだ。

 

《あの午後》は非常に寒かった。私は厳寒が羊に害を為さないのを確認して納屋に残して山から降りた。町では警備隊員は外套に、村の人は上着に包まって道で私を待っていた。私は彼らが笑っているのに気が付いた、そして直ぐに起ころうとすることに気が付いたが、私は彼らの方に歩き続けた、それしか出来なかった。

 

集団の先頭にはマンガス中尉が居た。彼が主役で手に鞭を持ち、5人の人間を引き連れていた。その中には2人の同郷人が居たが彼らは民兵で何時も武装し、あらゆることで人々をひっぱたき、脅し、虚勢を張っていた。民兵は皆そんなものだった。手に銃を持つことで自分を男の中の男と思っていた。

 

私は何人かのマキを協力したので、そのために私にけりをつけ、云いかえれば逮捕するために来たと考えるのは普通かも知れない。しかし違った。彼らは口に笑いを浮かべ、目は悪意に満ちていた。

マンガスは云った:

『実は我々はあることを知りたいのだ:お前が男なのか女なのか。今すぐに着物を脱いで、皆がお前が持っているものを見たいのでパンツを下げろ』

 

2人の民兵は猛獣のようになり、私を突き飛ばし始めてスカートを引きちぎった。

私は怖くはなかったが、これは死んだ方がよいと思った瞬間だった、しかし生き続けたかった。そして死は一歩先のところにあって、永遠に私を運びさる用意をしていた。ベルトが外れてスカートが地面に落ちた。下には寒さを通さないように絹のペチコートをはいていた。皆は教会の中にいるように黙った。私はペチコートをとり、そして何時も下にはいている短いズボンが現れた。私は笑い声を聞いたが何も云わなかった。何も云う必要がなかったし、彼らにお願いする必要もなかったし、顔を見る必要もなかった。そこでマンガスの落ちついた声が私に命じた:

『それも脱げ』

私はそれを脱いだ。皆は近づいた。誰かが云った:

『こんなもの見たことがあるか?』

 

私は上の方、空を見ていた。私には時間は長かったが何も考えたくはなかった。私の局部を何か冷たいものが触れたのを感じた。鞭を持ったマンガス中尉で、良く見るためにぶら下がったものを鞭で上げた。そこで私は内部に満ちる怒りを感じ我慢が出来なかったので、歯を食いしばらなければならなかった。私は酷く震えはじめた、彼らは寒さのためと考えた。もう笑わなかった。

マンガス中尉が云った:

『けっこう、さあ、もう見た。凍えるので服を着ろ。分かっているな、大人しくしろ。誰にも云うな。一寸でも口を滑らしたら、お前を探し出して目に物を見せてやるからな』

 

私は農家に帰ると、いつも暮らしている納屋に入った。殆ど息もつけなかった。私は閂を掛けて中に閉じこもった。壁を叩き始めた、強烈に。そして手の皮がむけるほど壁を殴った。最後に私は藁の上に横たわって泣きはじめた。窒息するほど猛烈に泣いた。

私はただ山に行って、一人静かに羊と一緒に居たかった。

 

私はマキとの連絡役が好きだった。彼らが私に渡すお金だけでなく、私を一人の人間として敬意を持って扱ったからだった。そして彼らは善人だと思った。

私はエル・カバニルに行ってフランシスコ・ヒスベールに、マキが集めて欲しいものを書いたリストを渡した。その後、マキが出かけて行って彼にお金を払った。

 

哀れなヒスベール、あの連中が彼にしたことは不当だった。警備隊がエル・カバニルを急襲して彼を捕えたとき、彼が多くの人々を密告し、そのために近所に住む農夫の多くが捕まったと云われている。

しかし、警備隊が彼に行ったこと全てをもってすれば、おそらく私もまた白状しただろう。人間は行われたことに耐えるにも限度がある。

 

誰にも害を与えず、殺さず、盗まない人間の彼を思うと、私は未だに目に涙が溢れる。どうしたらそれ程の悪に、人間性の欠如になり得るのか?

彼の最期は最悪だった。警備隊は彼をモレージャに留置し、彼から引き出せる名前を全て引き出した時のある日に、彼をポブラ・デ・ベニファッサの刑務所に移送した。

警備隊員は彼の農家に隠れるところがあって、未だ見つけていないところを云わせるために彼をエル・カバニルに連れて行った。彼が教えるべきことを教えると、彼らは表に出て彼に云った:

『充分だ、お前との仕事は終わった。もう行っても良い』

彼が十数歩行ったとき、背中に自動小銃の掃射が加えられた。彼は苦しみの後で死んだ。その地面に彼は転がった。

 

2人の警備隊員は家族が埋葬するために彼の遺骸を渡した。そして清めるために衣服を脱がせたときに、家族は睾丸が抜かれているのに気が付いた。

 

私はマキや山賊になり、良からぬことを行ったが、人間から睾丸を抜くにはどのような人間にならねばならないのか、どのような性根を持たねばならないのかを教えて欲しい。山の害獣もハゲタカも生きた人間にこのようなことはしないだろう。

 

彼らが私を探しているのも知っている。また私はヒスベール以上にマキの連絡員だった、そしていま治安警備隊はそれを知っているに違いなかった。

 

カルロス・エル・カタランは全ての地区のマキのリーダーで、近くの山から警備隊のエル・カバニルの襲撃を注視していた。彼は自分の部下が誰も残らず、彼らが皆を殺したことを知っていた。彼は私に会いに来た。

『パストーラ、これからはどうする?』

ある葡萄酒の夜に、私は彼に自分を女より男と感じると話した。彼は笑いも叫びもしなかった。私に云ったことを覚えている:

『パストーラ、外国では人が望むように生きるのは問題ではない』

『しかし私は此処で生活し、人は私を笑います、そして私の下部を見たがるので、私が出来た唯一つのことは彼らを怖がらせて邪魔をさせないことです。それが不愉快でした、カタラン、全ての人生が不愉快です』と私は彼に答えた。

『しかしあなたは同性愛者ですか?』

『いや、私は男も女も嫌いで、そのような相手には近づきませんでした。そして今はどうでも良いことです、あなたに説明のしようがありません。このことは誰にも話してはいません。母は私に私は女だと云いました、そして私は女でしたが、持っているもの全てが男のものでした:力、ヒゲ、態度、悪い性格。しかし、人に何を話そうと悪意にしかとりません』

『それは彼らは教養がないからです、パストーラ、戦争に勝ったファシストは本も読まず、生まれたときと同じくらい愚かなのです。フランコ主義者が望むのは何も変わらないことです。人々は背骨が折れるくらい主人のために働き、教養もなく、何かを学ぶつもりもなく、変革をするつもりもないことを望むのです』

『私が男か女かで私を笑うことと教養とどんな関係があるのです?』

『共産党では君に人間は尊厳を持ち、尊敬に値することを教える、読むべき本を読み自由を持てることを学ぶのです。私があなたに云いたいのは、フランスではあなたのケースは何の問題もないでしょう。あちらでは性同一性障害など何の問題もありません』

 

人は私にこのような調子で話したことはなかった。私の人生は働き詰めだった、そして祭りの時も我々は多くを話さなかった、一杯やる時も、踊る時も、トランプをする時も…

マキは言葉に非常な愛着と信頼を持つことに私は興味があった。

 

エル・カバニルの不幸なことの後で、カルロス・エル・カタランが私に云った:

『パストーラ、これから何をするつもりだ?』

私はここで我々が話すことは私にとって重要なものになると思って、心臓が少し縮み上がって彼に答えた:

『あなたは私が何をすべきだと思いますか?』

『我々と一緒に来なさい、山に入りなさい』

『それは重大なことです、もうご存知のとおり』

『ではあなたは此処で何をします?動物のように隅に隠れるか、ヒスベールのように警備隊があなたを叩き潰すままになるのですか?』

『しかし私はあなた方のように何の思想も持っていません』

『マキであなたに政治教育をします、勿論、読むことも学ぶでしょう』

私はそれを聞いた時、血が顔に上った。本当に私に読むことを教えるのか?

『どうです、パストーラ?』

『私はあなた方にどんな役に立つのですか?』

『あなたは宝石よりも大きな宝物です。私は食料品集めをあなたに任せたとき、あなたは良く動き、風のように茂みの中を素早く行くのを見ました。そのうえ、自分の手のひらのように誰よりも山を知っているという話です』

『それは事実です』

『それが我々には必要なのです』

『あなたに了解しましたと云いたいのですが、このスカートでは…』

そこでエル・カタランは私の前に立ち、真剣に私の目を見つめた。

『私はあなたに、ゲリラでは各人が好きなようにすると云いました。あなたは自分を男と感じますか、パストーラ?』

『はい』

私は彼に云い、それを云うために視線を下げた。

『分かりました、あなたは男になります。今晩、私と一緒に私の姉の家に行きます、彼女はマキの妻です、彼女はあなたの髪を切り、男物の衣服を探すでしょう。そして女のテレサなどは《クソ喰らえ》です、分かりますか?』

 

我々はラ・セーニャに行った。夜、我々はそこに着き、実際にカタランの姉シンタが待っていた。シンタは私にとても親切だった。私は未だ女としてその晩はそこで眠った…翌日、彼女は私に云った:

『こちらにいらっしゃい』

私はキッチンの低い椅子に坐った。シンタは櫛とハサミを取り上げた。私の髪を一房一房切った。私は髪が床に落ちるのを見て泣きはじめた。彼女はうまくくいっているので心配しないようにと云った。私の頭に浮かんだことはよく分からないが私は懼れていた。私が今まで拠って来たところがなくなる懼れだったのを覚えている。

 

シンタは私の髪に櫛を入れ、後ろの方に撫でつけた。私は然るべき服装をしていなかったので、彼女は鏡で私を見させなかった。彼女は男物の服を持ってきて、着替えの時に恥ずかしくないように立ち去った。女物の衣服を脱いでゆくにつれて懼れは一層強くなった。私が準備をし終わったときに皆が入って来て笑いだした。

『何を笑っているのです?』

『お母さんがあなたを生んでから、あなたは何時も男だったようだからです。この鏡を見なさい』とカルロスが私に云った。

私は自分を見た。笑うのか泣くのか分からなかった、もうテレサの痕跡は何もなかったからだ。それは男だった、本当の男だった、上から下までの男だった。馬鹿げた笑いがこみ上げて止められなかった、そして皆も笑った。

 

シンタは私が脱いだ服を取り上げて、それを火に投げ込んだ。家まで燃やすかに思える炎が上がった。シンタはコニャックとグラスを幾つか持ってきた、まだ午前中で飲む時間ではなかったけれども、お祝いするために我々は一杯やった。

私は再び鏡をお願いして顔を良く見た。私は手術の傷を手で撫でた。

 

『ところで何と云う名前にする積りです?テレソは良くないから』、エル・カタランが訊いた。

『フロセンシオにします。それは何度も考えていました。フロレンシオ・プラ・メセゲールは響きが良いのです』

『それでは、あなたはフロレンシオです。戦闘名はドゥルッティにします、どうです?』(*注:ブエナベントゥーラ・ドゥルッティ、スペイン無政府主義の指導者)

『気に入りました』

『ではあなたはレバンテとアラゴンのゲリラ部隊23部門に所属します、そして私があなたのリーダーです。ようこそ、同志』

彼は率直に私を抱擁した、そしてその時に私は今までにない満足を感じた。

 

我々は2日間その家に居た。そのとき姿を見せたのは2人のマキでバレンシアとルーベンと云った。カルロスとバレンシアは一緒に立ち去り、私はルーベンと出かけた。

我々はモスケルエラとフォンターネに行ったが、そこには多くの同志がいるキャンプがあり彼らは私を皆に紹介した。私は女であったことを彼らが気づくかどうかを注目したが、その様子はなかった。

私はキャンプには僅かな日しか居なかった。そして私はフォンタネーテに移ったが、そこはビエッホ・デ・グダールのキャンプと呼ばれる別のものだった、そこでは極めて重要なことが起こった:彼らは私を武装し、ソ連製の小銃を私に与えた。私はそれを兄弟であるかのように何時も持ち歩いた。

 

私はキャンプで少し教育を受け、銃の撃ち方や、知らなければならない重要なことを教わった。身元を知られないように必要なもの:米、レンズ豆、ヒヨコ豆、マッチ、毛布を買いに行くように農民への頼み方も教わった。農民が使わない便箋、鉛筆、装飾小物は、店員が直ぐにマキのために買っていると気付いて身元が割れるので、決して頼んではいけないと教わった。

また任務を命じられたときに為さなければならないことも学んだ。まず仲間が床屋になって髪を短くする。続いてボスがきちんとしているか衣服を点検する。旧い布靴や汚いシャツは御法度だった。共和制体のゲリラは、こざっぱりしていなければならなかった。

私には訓練や規則はそれほど難しくなかった、群れから離れて他の群れに入った仔羊を見付けるほうがもっと難しかった。

 

カルロスは彼の云う《経済的打撃》を与えに行くグループに私を入れることを決めた。我々はフアン、バレンシア、私の3人だった。我々はモレージャの端のフォンドの農家に派遣された。

我々は農家の息子のハイメが何時もの朝のように使用人と畑に行くのを待った。我々は道で彼らを待ち銃を突きつけた。そこでバレンシアはトマスという使用人にハイメの父親に12,000ペセタを要求すると伝えるように命じ、ハイメは人質にした。

ハイメは私を何度も眺めたので、私が誰かを彼は気付いていたと思う、そしてバレンシアも知っていたようだった。

 

その後、誰も現れずに何時間も経過した。バレンシアは神経質になって、彼の父親が金をよこさなければ殺すとハイメに云った。彼は臆病者で泣いて慈悲を乞うた。

そこでバレンシアは彼に云った:

『ではこの辺で知っている民兵の名前を云え、もっと先で奴らにケリを付けてやる』ハイメは間髪を入れずに多くの名前を我々に告げた、それが彼の親戚であろうと友だちであろうと関係なかった。彼の口から名前が出るとフアンは紙に書きとめた。【続く】

Lauburu | スペインで | 09:59 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

誰にも会わないところへ

 

2011年度のナダル文学賞受賞作品、Alicia Giménez Bartlett女史(1951年ラマンチャ地方アルバセテ県生まれ)の《誰にも会わないところへ:Donde nadie te encuentreを読んでみた。

 

最近の受賞者をみると、この3年は全て女流作家が賞を得ているが、いずれも実績がある作家で、ナダル賞は新人の登竜門の位置づけではないようだ。

 

この小説は過酷な運命を辿った実在の人物、通称パストーラ(女羊飼い)について、5年にわたるインタビューとフィールド調査を通じてまとめた、ジャーナリスト、ホセ・カルボの《パストーラ、山から神話へと:La Pastora.Del monte al mito》の実話にインスピレーションを得たという。

 

物語は1956年のバルセロナで始まる。

ずんぐりして少し禿げた風采の上がらないバルセロナのフリージャーナリストのカルロス・インファンテ(39歳)のところに、長身で洒落者のフランス人で、母親がスペイン・カタルニア人のソルボンヌ大学の精神科医のルシアン・ヌリシエ(43歳)からの手紙が届いた。

 

インファンテが反フランコ共産主義ゲリラ《マキ:maquis》について書いたバンガルディーア紙の記事に興味を持ったという。治安警備隊が必死に捜索している29人を殺害した非情な殺人女《パストーラ》を犯罪心理学の研究対象にしたいという。

 

彼らはバルセロナで会い、そこでヌリシエはインファンテにバレンシアの山に潜んでいる《パストーラ》と会見するための協力を依頼する。

インファンテは《パストーラ》と会える可能性は極めて小さいし、治安警備隊に察知される危険を伴うと云って尻込みする。

しかしインファンテは調査期間3ヶ月、仕事に着手したときに5万ぺセタ、終わったときに5万、《パストーラ》に会えたら5万を受け取ることで妥協する。

カネのためにだけ動くシニカルで打算的な男と理想に邁進する男、水と油の人間同士の約束だった。

 

物語は、この二人の架空の人物の《パストーラ》との会見を求めての調査活動と、パストーラのモノローグの形式をとった実話が二本の柱として交互に進展してゆく。

 

著者はヌリシエの目を通して《パストーラ》やマキや治安警備隊に巻き込まれた人たちが勝手に描く主観や、それに基づくマスメディアの《売らんかな》の姿勢が如何に実態とかけ離れたものか、学術研究には役に立たないものかを炙りだして行く。(何らかの事件の直近にいた人は、マスメディアの報道に50パーセントの事実があればマシなほうだと経験していると思うが)

 

この二本の柱のほかに、恵まれた知的環境で育ち、冷静で聡明な妻と二人の娘とパリで平和な世界にすむヌリシエと、内戦をくぐりぬけ、生きるために生きざるを得ない、愛するものも愛してくれるものもいない、インファンテの感情的反発と奇妙な共感がもう一本の太い陰の柱になっている。

 

インファンテはヌリシエの《お坊ちゃん》的な生き方を馬鹿にしながらも、何事にも集中できずに作家への夢が挫折した自分と比較して、ヌリシエの能力と学術への真摯さには頭が下がる思いを抱く。

 

ヌリシエはインファンテをシニカルな人間と思いながら、自分の人生は順調であっても、何時も世間が評価する路線の上を走って来ただけで、自分では何も選択しなかった後ろめたさを感じて、何も失うものがなく自らの道を切り拓かざるを得ないインファンテに共感を持ち始める。

 

心理的に何かに追い詰められたように酒に逃げ打算に生きるインファンテを、ヌリシエのナイーブとも云える、学術的目的を達成するための真摯さがからめ取ってゆくやりとりは面白い。

 

暴力、死、悲惨などが意味することはヌリシエとインファンテでは異なり、同じものを見ても本質の掴み方が全く違っている。

当初は内戦後のスペインの異常さに嫌悪感を覚えたヌリシエも、徐々にパリにはない非日常性に引きずり込まれて、パリでの生活は彼にとって何の意味があるのかと自問するようになる。

 

ヌリシエを完全に混乱させたのは、いま生きている雰囲気、彼が浸っている状況だった。辛辣、激情、憎悪、死に満ちたものが彼の方向感覚を失わせた。

ヌリシエは今までの人生が何か表面的で無為なものと考えるようになった。確かに彼の医者としての職業への献身は多くの患者の苦しみを救ってきた。

しかし、いま彼が直面する苦しみは別のもので、もっと嫌悪すべきもので悲劇的であり、人間によって課せられ、人間に帰着するものであった。

不正義、抑圧、貧困、無教養、巨大な不公平は、医者としてよりも人間としての彼に大きな影響を与えた。

今までの彼の既存の規範への従順さと、現状維持の人生観が揺れ始める。

 

インファンテは当初、ヌリシエは文明化されたところから来たと自負し、真理を身につけた者と確信する高慢な男に思えた。しかし時の経過はこの評価を変えた。ヌリシエは善人で、現実に汚染されていない奇妙に無垢な存在だった。

インファンテは彼のユーモアのセンスが好きだった、彼の姿を取り巻くちょっとした憂愁、人の立場に立つ能力、親切さ、礼儀正しさも好きだった。

おそらく、ヌリシエの人生はインファンテが受けたような試練を受けていないのだろう。ヌリシエは宝石のように輝き、自分は瓦礫のように汚辱にまみれているとインファンテは考える。

 

インファンテはヌリシエに云う、平凡な日常性は外から見れば、つまらないものと反発を感じても実は人間を支えているものなのだ。我々は時の経過とともに自分の現実を見失ったら、自分の現実に戻らなくてはならないのだ

あなたは色々な選択肢があって苦しんでいるが、この土地で生きる農民は何の選択肢も持っていない、戦争で殺された連中も、我々が探す呪われたパストーラも然りだ。

 

治安警備隊に妨害されながら調査を進める人生観が全く異なる二人の微妙な心理的交流は、本筋とは違うエピソードのようなものだが、これが内戦後のスペインの異常な社会状況のアウトラインを描いている。

 

治安警備隊とのヒットエンドランが続くなかで、ヌリシエの3ヶ月の調査期間は終わりに近づくが、山に1人隠れるパストーラが唯一信頼する、生まれたときから知っている若者ディエゴと偶然知り合うことになる。(ディエゴは実在の人物だが、その他のことは全てフィクションであるが)

ディエゴはヌリシエとインファンテが町に着いたときから、彼らにパストーラに危害を加える意図があるのか監視していたが、彼らが危険を冒してまで真剣にパストーラのことを考えているのを知って、真実を世に知らせるために秘かに山の中で会う段取りを引き受ける。

 

2人はパストーラの過去の一切を聞き(これがパストーラのモノローグなのだが)、フランスに逃れる援助を申し出るが、パストーラはもう山を去る時期だが、援助はスペインを脱出するための少々のカネだけで結構だという。

 

目的の仕事が終わったとき、突然インファンテは、ヌリシエを巻き込まない方法で治安警備隊に《パストーラ》探しをしていたと自首すると云いだす。

ヌリシエには全く理解できないことだった。

インファンテは放心したように云う、内戦後に自分だけが助かるために、共産党員だった両親を体制に売り渡して殺してしまった悪夢が、ヌリシエの真摯な生き方を見ているうちに耐えがたく彼を襲うようになって、魂の安住の地は刑務所しかないと知ったからだと。

ヌリシエは呆然と頭を抱えるだけだった。

 

山の中で雷鳴が轟く豪雨のなかを、インファンテは町外れの治安警備隊駐屯地のほうへ、ヌリシエは町の中心に向かって確固たる足取りで歩き始める。

 

さて、《パストーラ》とはどのような人物なのか:

テレサ・プラ・メセゲール(通称パストーラ)は1917年にバレンシア州カステジョン県バジボーナで生まれ、生殖器不全から身体的に性別は不明だったが兵役の義務がない女性として登録された。

しかし、周囲の偏見は子供のときから彼女を徹底的に痛めつけ、屈辱にまみれた無学で孤独な人間に追いやってゆく。

 

孤独に山の中で羊と暮らしているときに、共産主義反フランコゲリラ《マキ》と出会い、彼女を人間として扱うゲリラに心引かれて、政治思想は抜きでマキに加入する。

その後、マキの撲滅を図るフランコ体制とマキの抗争で多くの死者が出たが、世間は性的に特異な存在のパストーラをスケープゴートにして全ての殺人を彼女に帰してしまう。

 

治安警備隊は必死に彼女を追うが、いつも取り逃してしまい、ここから世論はパストーラの神話を作り上げてしまう。(マスメディアに扇動された世論の無責任さは、歌にまで歌われたBonnie and Clýde事件と極似している)

 

1939年にフランコ独裁体制が確立し、1950年にマキはフランコ体制に押し潰されてフランスに撤退する。そこでマキを脱退して残ったパストーラは、1954年にただ一人の同志のフランシスコが豪農への襲撃に失敗して殺され、一人で2年間山に隠れて暮らすが1956年にアンドラ公国に逃れる。

 

そこで、スペインとアンドラの間のナイロンとタバコの密輸に従事して、4年後には一寸した財産を築くが、仲間との金の貸借トラブルから密告され、不法入国で逮捕され1960年にスペイ当局に引渡される。

 

スペインでは軍法会議で死刑が求刑されたが、殺人の確固とした証拠がなく1961年に30年の懲役刑が宣告される。

 

パストーラが収監されたバレンシアの刑務所の刑務官のビヌエッサは、その苛酷な人生に同情してパストーラの助言者になり、1977年にパストーラの公式に登録された性別の変更(女性から男性への)に必要な書類を作り、また国王への恩赦嘆願書を上申する。

そして3ヵ月後にパストーラは恩赦で釈放される。

そのとき行き場のないパストーラに、ビヌエッサはバレンシア州オロカウの自宅の庭の小さな家屋を住居として提供する。

 

1980年には公式に性別の変更が認められて、女性名のテレサ・プラ・メセゲールから男性名のフロレンシオ・プラ・メセゲールになり、2004年に84歳の生涯を閉じるまでオロカウのビヌエッサの家の隣で静かな余生を送る。

 

ジョージ・オーウェルはスペイン内戦時に義勇兵として共和政体側についたが、結局は同じ側についた共産主義(スターリン主義)の悪辣さに愛想をつかして、帰国後に《Homage to Catalonia》や《Animal Farm》を記した。

パストーラの実話を読むと、内戦後のバレンシアとアラゴン地方の貧農の間では、当初は共産主義のテーゼがかなり浸透していたが、徐々に見捨てられて行く様子が描かれている。

 

バレンシア刑務所の刑務官ビヌエッサ(Marino Vinuesa Hoyos)はどのような人物だったのだろう。

彼がパストーラの恩赦嘆願書を書いたときパストーラは60歳で、もし出所しても雇う人間が居るわけがないので、そのとき既に出所後は自分が後見人になる覚悟だった。苛酷な人生を送ったパストーラが人生の最後に出会った幸運だった。

ビブエッサは、云いっぱなしの自画自賛人間とは対極にある興味のある人物なので、色々と調べたが市井の一刑務官であるので詳しい資料は見つからなかった。

 

マキが農民から物資を調達することを、《略奪》と云わずにゲリラの大義に基づく《経済的打撃》を与えると云っているのには苦笑してしまう。むかし学生運動家や市民運動家がよく使っていた詭弁に似ているから。

 

パストーラの苛酷な生き方を綿密な調査に基づいて実話にまとめた、《パストーラのモノローグ》の概要をまとめておいた。

 

):治安警備隊Guardia Civil

15世紀中盤にイサベル1世が設立した地方警察組織の聖同胞会(Santa Hermandad)が起源で、当初は地方に跋扈する山賊退治であった。

その後、徐々に時の権力者の権力保持の道具に変質してゆく。内戦後のフランコ独裁時代は体制維持の先兵として懼れられた。組織的には今も存続している。

 

僕はスペインで治安警備隊員がかぶる後ろが平らな奇妙な形の三角帽子を見て、18世紀ではあるまいし現代で、この三角帽子にどのような美的価値を見出すのかと何時も不思議に思っている。


歴史書を読んでいたら庶民の悪たれ口として:

『奴らを壁の前に立たせて銃殺するときに、ツバが後ろの壁に当たらないように後ろを平らにしたのさ』、という表現があった。

昔は如何に治安警備隊が恐れられ嫌われていたかを示すものとして興味をそそられた。

 

Lauburu | スペインで | 09:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

マドリードの旧市街散歩

 

マドリードに住んでいたとき、僕が好きだった散歩ルートの一つを久しぶりに歩いてみた。

 

マドリードの中心にある地下鉄の駅、ソル⇒セビージャ⇒アントン・マルチン⇒ラバピエス⇒ティルソ・デ・モリーナ⇒ソルを結ぶ小さな5角形の地区は、著名な観光名所はないが、昔のマドリードの下町の風情を残すところと云われている。

そしてラバピエスとティルソ・デ・モリーナの間にあるアベ・マリア通りは、昔の下町の猥雑さの面影を残していて興味深い。

 

そこで今回はその5角形の地区の一部を歩いてみた。

地下鉄2号線のセビージャジャ駅で降りて南西に歩くと、カルデロン劇場とサンタ・アナ広場に出る。

この小さな広場に面して1904年に開設されたセルベセリア(ビアホール)・アレマナがあるが、ここはむかしはアメリカ大使館員の贔屓だった場所で、ヘミングウェイもここで作品の構想を練ったと云われる。

氏は《午後の死》のなかでこう記している。

 

…マドリードでは、夜寝る奴は少しおかしいということになっている。あなたの友人たちは、それに慣れるまで長いことかかるだろう。
マドリードでは、夜をつぶしてからでないと、誰もベッドに入らない。友だちと会う約束をするのは、きまって真夜中すぎのカフェということになっている(三笠書房)

 

氏も夜半過ぎにアレマナの椅子に坐って、サンタ・アナ広場の人々の往来を眺めながら考え事をしていたのだろうか。(20年前まではサンタ・アナ広場は芝生を張った広場だったが、今は石板張りの味もそっけもない広場になっている)






そこから北に向かって坂を下るとプエルタ・デル・ソルに出て、さらに北に坂を上るとグランビアに行き着く。

 

この一帯のカフェテリアは何時も観光客で一杯だったが、昔も今も変わりはないようだ。

マドリッド市観光局の調査によると、今年1〜7月に同市を訪れた観光客の10人中9人が満足し、他の人に訪問を推薦できると回答したそうだが、実際にドイツ語と英語を話す人たちで満ちていた。

 

今年のナダル文学賞作品を読んでいたら、バレンシア刑務所の刑務官である非常に興味のある人物についてほんの少し触れられていて、僕はもっと詳細に彼について知りたくなった。

 

そこでこの散歩を利用してグランビア通りの《本の家:Casa del Libro》とプエルタ・デル・ソルの《コルテ・イングレス百貨店書籍部》に行って色々探したが、残念ながら市井の一刑務官のこととて彼に関する書物は見つからなかった。

 

それではと、現在のスペインの人気作家のカルロス・ルイス・サフォンの未だ読んでいないデビュー作があったので購入した。

彼の本は英語に翻訳されて広く読まれているそうだが、日本では彼の名前を知る人は殆どいない。

 

そう云えばガルシア・マルケス氏もマリオ・バルガス・リョサ氏もノーベル文学賞を受けるまで日本では殆ど知られていなかった。

 

英語で書かれた本は駄作でも日本語に翻訳出版されるのに、その他の言語で書かれた本が翻訳出版されることは本当に少ない。

 

マドリードは夏が過ぎたと云っても未だ日差しは強く、喉が渇いたのでジントニックを飲みにマヨール通りをプラサ・マヨールの方に歩いて行った。

 

この通りで僕が何時も感心するのは大道芸人の疑似銅像で、1分も静止していると身体がむず痒くなる、落ち着きのない僕には驚異的なことに思えるからだ。

 

この日は5体の疑似銅像があったが、ポケットには2個の1ユーロ硬貨があるだけだったので、残念ながら2体の写真しか撮らなかった。





 

Lauburu | スペインで | 14:45 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
1/1PAGES | |

10
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--
PR
RECENT COMMENT
MOBILE
qrcode
OTHERS
LATEST ENTRY
CATEGORY
ARCHIVE
LINKS
PROFILE
SEARCH