スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

スポンサードリンク | - | | - | - | - | - |

街の顔〜1

久しぶりに、8年前まで住んでいたマドリードの地下鉄コロンビア駅の地上に出た時、街の雰囲気は以前のままだな、という気がした。


しかし、僕がいつも行っていた新鮮な海産物が食べられる気さくなバル・レストラン《マルベージャ》で美味しいエビの鉄板焼きを食べようと探すが見当たらない。
残念だな、と思いながら歩いていると数十メートル北に行ったところにあった。

見違えるような洒落たファサードの店になって。

この地区を南北に走るベルガラ大通りを散策していたら、徐々に何か以前とは違うと感じ始めた。

何が違うのだろうか。

建物の並びが作り出す雰囲気は以前と変わらないが、その建物の地上階で営業する店舗の業態が変わって来ている。美味しかったチュロスの店も消えていた。

以前、この地区は都心と住宅地の境界で、店舗も買い廻り品を扱う生活感があるものが多かった。
しかし、今は宝飾店やブティックのような都心型の店舗に置きかわっている。

マドリードの都心部も外に外にと広がっているからだろう。

街の骨格は見かけ上は変わっていなくても、商店の業態は時代に応じて変わってゆく。
鳥の目で街を見ると昔と変わらないように見えても、地上の虫の目から見ると様子は変っている。

 

ヨーロッパの古い街は建て替えが規制されているので大枠は変わりようがない。そこでマドリードも、人口増はモストレスのような地下鉄の均一料金地区の外側の南の地区で吸収することになる。

 

時代に合わせて利便性を求めてガラガラと変わって行く東京の住宅に住みなれると、ヨーロッパの旧市街の住宅は不便だとも思う。

 

旅行者の郷愁を掻き立てる雰囲気があっても住むとなれば話は別だ。

 

東京の都心は建物も一気に変わってしまうので、以前は一体何だったかを思い出すのも苦労するほどだ。

東京は常に変化するスリリングで面白い街だが、商業地区の低層木造家屋が土地の高度利用を求めて建て替えの対称になるのは宿命なのだろうが、昔からの日本の生活文化の匂いが失われてゆくのは寂しい気もする。

 

しかし『君は利便性を捨てても歴史を守るために、数世紀以上の歴史を背負うヨーロッパのような住宅に住みたいと思うか』と訊かれたら、『yes』と答えるだろうか。

ガス管を引くスペースのない昔の中層住宅では、未だに人間が担いで運べる小さなプロパンボンベを使っているところもある。

停電になるとトイレの水も流せない自動化追求の極致の日本とは大違いだ。

 

僕のイルンの古いマンションでは僕の家も含めて2割位しか都市ガスは引かれていないし、後付けのエレベーターのために削られた階段の狭さはひどいものだ。

 

利便性は日本で求め、郷愁はヨーロッパの旧市街で求めるという自分の身勝手だった発想に、今では苦笑している。

 

アンダルシアの家の白い壁が欠けたところを見ると、焼き尽くす夏の太陽を避けるために石灰を塗り重ねた苦労の年輪が見える。

家の中を見せてもらうと、はたして僕は此処に住み続けられるか?『no』だ。

 

フランコが1939年に政権についたとき、外貨獲得の柱に観光業を据えて《Spain is different》のコピーを世界にばらまいて成功を収めた。

僕も1975年にスペインを訪れたとき、僕の頭の中の《Different》の文字は大きくて濃かった。

だが今、《Different》は小さくて淡いし、あと10年後には消えてなくなるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

Lauburu | スペインで | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

アプレ


《今時の若い者は…》というような世代間の軋轢というものは、何時も繰り返されながら歴史と云うものは転がってゆくもののようだ。

 

この点で、日本とは歴史の時間軸が全く異なるスぺインで生活していることは、日本人の僕は孤立した存在なので、世代の繋がりや軋轢を感じなくてすんでいる。

人によってはこれに起因する孤独感が耐えられないらしいが、僕は時系列的縦社会の煩わしさがない解放感が好きだ。

 

僕は1946年(昭和21年)4月1日に小学校に入っているので戦後派教育の第一期生ということになる。昭和20年4月入学生の国語教科書の冒頭の《サイタ サイタ サクラガ サイタ》は影も形もなかった。

 

大人の世代に馬鹿にされて、アプレ《アプレゲール:après-guerre戦後派》と呼ばれた世代の第一期生だった。

敗戦後の価値観の激変で自信を失った大人たちの鬱憤のはけ口にされた僕たちの苛立ちは大変なものだった。

 

その我々世代が今の若い人たちの教育がなっていない、などと云うのを聞くと、我々は若い時に何んて云われたのだっけと問いたくもなる。

 

大人は若者を無知で無作法な存在と決めつけ、若者はそのような大人を馬鹿にして毛嫌いする。そのような食い違いから生じた笑い話があった。

 

高校1年生のときに、期末試験で運動部の練習もなく、僕は部の友人と都電の7番に日赤病院下で乗って、天現寺から古川橋を抜けたあたりだったか、その日の朝刊で紹介された国文学者の藤村作博士の《日本文学大辞典》の話をしていた。

 

その時に瘠せた鶏のような50年配の爺さん(当時は50歳を過ぎれば爺さんだった)がヌッと近づいてきてワメキはじめた:

 

『だからアプレはダメだと云うのだっ!《ふじむら つくる》だとぉ!お前たち アプレは勉強もせず本も読まないのか!それは《とうそん さく》と読むんだ。お前らは島崎藤村の千曲川のスケッチや夜明け前なども読んだこともないのか!』

 

僕らは一瞬キョトンとした。そして直ぐにこの爺さんの勘違いに気が付いた。

そして腹を立てた友人が半畳を入れた:

『島崎藤村って画家は千曲川の何処をスケッチしたのですか?』

 

爺さんは益々意気高らかになった:

『何て奴らだ、お前たちは教養がなさすぎる。こんな教育をしていたのでは日本の将来は真っ暗だ。戦前は良かった、教育は立派だった』

 

僕は馬鹿馬鹿しいので黙って聞いていたが、急に腹が立ってきて余計なことを云ってしまった:

『戦前の立派な教育を受けた人たちは戦争をして結果はどうなのです?負けたのでしょ。偉そうなことを云うなら勝ってからにしてくださいよ!』

これが拙かった。爺さんは逆上してワナワナと震えながら掴みかかろうとした。

それは魚籃坂下から伊皿子坂上に向かう坂の途中で、車掌が紐を引いて運転席の鐘をチンチンチンチンと連打して緊急停止させた。そしてドアを開けて:      

『ほかのお客さんの迷惑になるから君たちは此処で降りなさい。品川駅はもうすぐだから歩いて行けるでしょ』

友人の家は次の泉岳寺駅で、僕はその次の高輪北町駅なので不便はなく、直ぐに都電を降りて、坂の上のアントニン・レイモンド設計のスタンダード石油のスマートな役員住宅(僕は今でも、今は亡きこの住宅のフォルムに憧れている)の方に歩き始めた。

都電もまた動きだした。窓をせせり上げて首を突き出した瘠せた鶏のワメキ声が聞えた:                                                 

『このアプレがあ〜

                                     

このとき腹たちまぎれに瘠せた鶏を絞め上げてしまっていたら、親にも学校にも大変な迷惑をかけただろう。

機転を利かせてくれた車掌さんの名前は今でも感謝して覚えている。飛騨秀夫さんという名前だった。

Lauburu | スペインで | 12:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
1/1PAGES | |

12
--
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
--
>>
<<
--
PR
RECENT COMMENT
MOBILE
qrcode
OTHERS
LATEST ENTRY
CATEGORY
ARCHIVE
LINKS
PROFILE
SEARCH