2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2012.01.21 Saturday
広尾商店街のど真ん中には祥雲禅寺の山門があって、ここをくぐると何か周囲と異なった雰囲気が伝わってくる。
再開発ビルと古い家屋が入り交じる雑然とした広尾商店街を離れて、昔の境内のなかに民家も存在する雰囲気は、なにか突然に京都の寺町にでも迷い込んだような気がする。
この禅寺は今から350年前に麻布台から広尾に移り、諸大名が檀家になって隆盛を極めて渋谷から麻布にかけて広尾はただ一つ人家が十数件あったところだったという。
この寺には黒田長政の墓や、歌舞伎の名狂言、与話情浮名横櫛をもとにした春日八郎の『お富さん』で有名になった《玄冶店(げんやだな)》の岡本玄冶の墓もある。
祥雲寺山門を出て商店街の中を地下鉄の広尾駅の方に向かうと、天現寺橋から霞町(西麻布)を結ぶ《外苑西通り(通称:地中海通り)》に出る。
今は、この通りの両側にはビルが並んでいるが、昔は敗戦後のドサクサにまぎれて私有地を不法占拠した廃品回収業者が廃木材と焼けトタンで作ったバラックが通りに沿って並び、寒い冬には古タイヤを燃やして暖をとるので空は黒煙に覆われていた。
僕らはこの通りを《地中海通り》とは似ても似つかぬ《バタ屋通り》と呼び、学校の行き帰りにこの冴えない道を往き来していた。
さて天現寺橋から目黒の方に外苑西通りを辿って行くと、白金にカフェやショップの並ぶ通称プラチナ通りに出る。そして此処に出没する人たちを《シロカネーゼ》と云うらしい。
この通りの上手に向かって左側には、広い敷地の東京大学医科学研究所があるが昔は国立伝染病研究所と云った。
この中には小学生なら野球が出来る程度の中庭があって使わせてもらったが、研究所のこととて声を出してはいけなかったので少しも楽しくなくて、ここでの野球の試合はいつの間にか立ち消えてしまった。
当時、僕らは伝染病研究所を《伝研》と呼び、その前を通る道路、今の《プラチナ通り》を、これもまた似ても似つかぬ《伝研通り》と呼んでいた。
しかし、もう今は昔の痕跡はどこにもない。
東京は成長し機に応じて脱皮を繰り返す生物のように変化してきたし、それが変化のスリルと発展をもたらしてきたのだから、それなりの意味があった。
しかし成長が鈍り脱皮するゆとりもなくなったとしたら、歴史を捨て去り、好き放題のデザインで建てられた脈絡のない建物群の街を見て僕は何を感じるのだろう。
丁度、サン・セバスティアンの市街とは水と油の、ガラス張りの近代的な音楽堂を見たときの違和感のようなものだろうか。
2012.01.21 Saturday
現実でありながらお伽噺の世界を思わせるジオラマのような、長い歴史の蓄積を持つヨーロッパの街と、転変の激しい東京を重ね合わせている。
敗戦後の社会が落ち着き始めた小学生の頃は、身の回りの街は全て広大な遊び場だった。
家のある高輪北町から、高い頑丈な石垣の上に立つ豪邸に挟まれた桂坂を登りきると高輪台小学校があって、ここの友だちと一緒に北に向かい明治学院の脇を通って日吉坂を登り詰めると八芳園に出る。
ここを左に折れて都電5番線の軌道に沿って目黒駅のほうに歩いてゆくと白金台の自然園があって、トンボ釣りやカラスウリの実を採って遊ぶ。
さらに北東に向って天現寺橋から広尾橋に出てから有栖川公園の池でアメリカザリガニを釣ったものだった。
思えば、あの当時の小学生の行動範囲は今とは比べ物にならいほど広かった。
ガス工事人がガス管を積んだ大八車を引き、たまに車が通ると排気ガスの臭いに感動する。路面には荷車を引く馬の、枯れ草を丸めたような糞がポロポロと落ちているというような、道路が安全な時代だったからだろう。(僕が1956年に自動車運転免許を取ったとき、未だ交通法規には《車馬は…》と云うように車と馬が併記されていた)
高輪は高松宮家、北白川宮家、竹田宮家の邸宅があり、満州太郎こと山下太郎氏の豪邸やヴォーリズが設計したスペイン・コロニアル風の朝吹邸もある優雅な街だった。
一方で、今となっては信じ難いのだが70年近く前には広尾には未だ茅葺屋根の家も散見され、祥雲禅寺の近くに七星舎という酪農家があって牛糞の臭いも漂っていた。そして近所の人たちは搾りたての牛乳を買いに行っていた。
今でこそ高輪は昔の光彩を失い、恵比寿や広尾や白金台は旬の場所と云われ再開発が盛んだが、350年前に描かれた歌川広重の広尾ふる川(渋谷川)を見るとのどかなもので、鶯が谷渡りしていたそうだ。
だが、僕が子供の頃には、広尾ふる川の両岸は準工業地区で金属切削加工の町工場が並んでいて、そこからドブ川に落ちた金屑を、冬の寒空の下でも河太郎(がたろ)と呼ばれるクズ鉄回収業者が大きなザルですくい集めていた。
ヨーロッパでは300年経っても変わらない街が多いのに、この様変わりは凄い。
【歌川広重の《広尾ふる川》】
2012.01.06 Friday
このような世界的な経済の混乱を避けるために、経済大国の日本は何をすべきかを模索するのが政治家の仕事ということが頭にないらしい。
ユーロの原点は第一次世界大戦の後に、青山光子を母に持つリヒヤルド・クーデンホーフがヨーロッパ連合の構想を提案したのにはじまる。
そしてスぺインの哲学者オルテガもヨーロッパ合州国(Estados Unidos de Europa)の概念を打ち出した。
その後、不幸にして勃発した第二次世界大戦の悲惨な経験から1946年にチャーチルもまたヨーロッパ合州国(United States of Europe)の考えを世界に訴えた。
具体的な動きとしては先ず《ヨーロッパ経済共同体》から始まり、《ヨーロッパ共同体》を経て《共通通貨ユーロ》が導入された。
いまユーロはもがき苦しんでいるが、僕はユーロは長い人類の闘争の歴史が生んだ偉大な実験であり、世界中の国が支えるべき理想であると思っている。
長い間の仇敵であったドイツとフランスが手を組んでユーロを支えようとしているのは、強い信念に基ずくものでユーロの破綻などはあり得ないだろう。
メルケルもサルコジも山岡某とは次元の違う理念と信念を持って動いている。
汚れ仕事は沖縄県民とアメリカ軍に押しつけて経済発展してきたが、釈尊の捨身飼虎の覚悟もないインチキ平和主義を、呪文のように唱えているうちに頭がボケ切ってしまったらしい。
あなた任せで、自分の身は自分で守るという当たり前のことを真剣に考えず、自分の殻に閉じこもっているうちにガラパゴス化して世界から遊離してしまった。
50年前には35億だった世界の人口は去年70億と倍になった。
ゴキブリとネズミが人間の増殖ぶりを懼れて緊急対策会議をしているのではないかと思うほどだ。
この調子で人口の増殖が続けば、50年後には水、食料、エネルギーは完全に不足し、腕力ずくの争奪戦が始まるのは目に見えている。
13億の人口を抱える中国の軍備増強はこれを前提にしているのは明らかだ。
それでもなお自己陶酔のインチキ平和主義を歌いつづけているのだろうか。確固たる国防意識がない国に外交は存立しえないのはマキアベリを読むまでもない。