2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2012.02.26 Sunday
僕の住むイルンの隣町、人口が20,000に満たないオンダリビアで本格的な会席料理を楽しめたのには驚いた。
つくづく食のバスクだな、と感じ入るばかりだ。
近年、バスク地方の人気のあるレストランに行くと、盛り付けや素材の扱い方に会席料理の影響が見られ、和の食文化が静かに根を張りつつあるのを感じていた。
そのようななか、オンダリビアのレストラン・アラメダで、日本から調理人を招待して2日にわたって会席料理の夕べが催された。
献立は会席料理そのもので一汁三菜が基本になっていたが、三菜は日本で標準的な刺身、焼き物、煮物とは違って、刺身の代わりに煮物が入っていた。
スペインの人は生魚を食する習慣がないために、刺身を煮物に置き換えたのだろう。
スペインで手に入る和食材に限界があるので、日本と比べるのは意味がないが、まさかスペインでこんなに本格的な会席料理が食べられるとは。
料金は決して安くはないが、約80席あるレストランで日本人の客は長女と僕を入れて5人だけで、あとはスペインの人々。
和の食文化が静かに根付いているのが感じられる。
これを根付かせた人たちの人生の軌跡は決して楽なものではなかっただろうから、それだけに感じ入る。
これが日本料理店ではなく、スペインのレストランでの献立なので驚きだった。
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玉子豆腐
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野菜とエビの土佐酢和え
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玉子焼き、牛肉の八幡焼き(ゴボウはインゲンで代用)
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ナスの時雨煮
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鴨の治部煮
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帆立の昆布締めとマグロのたたき
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スズキの幽庵焼き畳鰯添え
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小エビのかき揚げ
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イカとしめ鯖のにぎりと鉄火巻き
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胡瓜の酢の物とお澄まし
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白玉汁粉ときな粉のシャーベット
食事が始まったのは午後9時、終わったのが午前1時。いかにもスペインらしい。
次女と13歳の長男がロンドンから東京に来たときのことだったが、彼は真っ先に恵比寿の書籍店に飛んで行ってONE PIECEを4冊買ってきた。
それをソファーで読み耽っているときは、声をかけても耳に入らないようだった。
このコミックは世界30カ国以上で翻訳されているので、当然彼は英文のものはロンドンでも手に入るのだろうが、原書で読むのは格別なのだろう。
そういえば以前、イベリア航空の機内でKafka en la orilla(海辺のカフカ)を読んでいた隣の女性が、僕が村上春樹を原書で読めるのを羨ましがっていた。
彼は幼稚園と小学校はロンドンの日本人学校に通っていて、今はパブリックスクールに通っているが、学校の方が気を利かせて日本語も忘れないようにと日本語の先生を探してくれたそうだ。
きっとイギリスの子供たちも、彼がONE PIECEを原書で読めるのを羨ましいと思っているに違いない。
僕はYou Tubeで見聞きするだけだが、初音ミクと云う興味のあるソフトを若い日本人グループが生み出した。
世界中の人が誰でも作詞家に、作曲家に、振り付け師になり得るのだと思うと、このソフトの広がりの無限の可能性に驚いてしまう。
バーチャルシンガーの合成音声や動きは益々洗練され高度化してゆくだろうから、世界に新たな芸術分野を生み出すのだろうと思う。
一般的に、このような領域をサブカルチャーなどと決め付けるのを聞くと、僕はそれは違うよ、と思う。
カルチャーにはメインもサブもない。多くの人の心に浸み込み、耕し、実りをもたらすものがカルチャーなのだから。
いま日本の政財界のリーダーで世界を魅了する人物は殆んど見当たらないが、文学や食文化やコミックやバーチャルの分野では、有名無名を問わず世界を魅了する人材を輩出している。
まだ、まばらな灯のように点灯しているだけだが、何時の日にか灯火が結びついて輝かしい光源になるだろう、と願う。
今の日本で、自由な発想力のある人間が組織の管理下で自由な精神を消耗する人間になりたがるだろうか。
自由な精神が働かないところに新たな発想(異端というべきか)は育たない。
これが今の日本の停滞に繋がっているのだと思う。
組織のトップが《視点を変えろ!発想を転換せよ!》などと檄を飛ばすのは無意味なのだ。
問題は個人の資質ではなく、社会構造や企業構造にあるのだから。
日本は優れた生産技術で欧米に追いつき追い越してきたが、今は追われる立場になって、ある面では追い越されている。
このようなときに、従来の発想の延長で生産技術の再構築を叫んでも無理だと思う。生産技術で遅れたのではなく、発想で遅れをとったからだ。
追う者の強みは日本が経験済みのことで、追う者の強大なエネルギーを阻むことは不可能だから、新たな社会構造や産業構造を目指さない限り、日本の将来の展望は開けないだろう。
一致団結して突き進んだ《和を以って尊しとなす》の強味は、時代の早い流れの中で、決断の遅さと独創力の欠如の弱味に転化してしまった。
今まで日本は不足を満たそうと新製品を次々と開発してきたが、不足は充足されて旧い頭は機能しなくなっている。
今は充足された時代への満腹感が新製品を打ち出す原動力になるのだろう。
iPodやiPhoneやiPadはまさにその産物だと思うし、新しい世代の頭に期待するほかはない。
ソフト事業に携わる人たちの活躍を見ていると、僕はいまの日本は底を打って上昇への変曲点にあるのではないかと思っている。
時間はかかるだろうが、日本は発想をソフトの観念に比重を移して、その発想を袋小路に入った既存の産業に吹き込まない限り発展はないと思う。
日本を取り巻く潮目が変わったのだとつくづく思う。
2012.02.12 Sunday
スペインの古代史を読んでいたら、イベリア半島がローマ帝国の属領だった時代にはガルーム(garum:魚醤)なるものがローマへの重要な輸出品であったという。
僕はショッツル、ナンプラー、ニョクマムのような魚醤は、アジアの食品だとばかり思っていた。
ガルームは古代ローマでは上流階級だけが使えたもので、当時は一種の媚薬と考えられて珍重されたと云う。葡萄酒や酢やオリーブ油と混ぜて料理の味付けに使っていた。
今のスペインには魚醤は残っておらず、地中海沿岸都市のアリカンテの西50キロにあるアドラの沿岸で見つかった古代の2隻の沈没船に積まれていた壺からガルームの正体が分かったという。
輸出品の主たるものは高級品のサバのガルーム、マグロのガルームだったらしい(小魚のガルームと、どのような味の違いがあるのだろうか)。
ガルームの製法は、容器に色々な魚介類の内臓やウツボ、サバ、マグロ、コウイカ、イカ、カキ、アサリ、エビ、アナゴなどを入れたり、また雑魚、アンチョビー、イワシ、アジなどの小さな魚を入れたりして大量の塩をまぶして掻きまわしながら、魚が持つジアスターゼで自己発酵させ、天日で濃縮してから濾過したものがガルームだという。
小魚を塩漬けするアジア系の魚醤と少し違うのは、大型の魚も漬けこんだものもあった。
それにしてもナンプラーやショッツルが媚薬だなどとは聞いたこともないので、古代ローマ人の心性の一端を垣間見たようで面白い。
スペインの魚屋の店頭を見ると、魚扱いの丁寧さは日本と比肩できる数少ない国の一つだと云うことが分かる。魚好きだし種類も豊富だ。
イタリアでは魚醤はシチリアで細々と生産されているようだが、なぜスペインから魚醤は消えてしまったのか。
魚醤はローマ帝国の食文化であってもイベロ人の食文化ではなかったのだろうか。
食欲の湧かない獰猛な外観のウツボはウナギの仲間なので味は悪くないらしく、日本では西日本の一部で食されているが、いまスペインでもカナリア諸島で食されることもあるらしい。
古代にガルームの原料として使われたのも無難な選択だったのだろう。
現在ヨーロッパで魚醤が食べられていると云う話はあまり聞いたことがない。
ところが偶然、ウォッカ、トマトジュース、ウスターソース、タバスコ、ペッパー、塩で作るカクテルのブラッディーメアリーを飲みたくなって、何気なくイギリスのウスターソースLee and Perrinsの小瓶を眺めていたらfish sauce(魚醤)が入っているのに気が付いた。
そう云えばイギリスはインドを植民地にしていたので、アジアの食文化が入り込んだのかも知れない。