2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2012.05.20 Sunday
2012年度のナダル賞受賞作《英雄の身震い:El temblor del héroe》を本屋で手にとって、裏表紙の解説を読んだら:《家に閉じこもる退職した大学教授のロマンに教育者としての栄光の日々の郷愁が忍び寄る…》とあった。
僕は2年ほど前からナタリア・ギンスブルグのいう:《老いるとは人びとから孤立して、過去が崩壊したことを嘆き、自らのうちにとじこもってしまうことである(白水社)》を実感しはじめているので、興味を持って本を購入して読んでみた。
著者はアロバロ・ポンボ(Álvaro Pombo)で、僕と同い年の1939年生まれの現代スペイン文学でかなりの実績のある作家である。
物語は条理の世界に住むロマンと、不条理の世界に住むベルナルド、その狭間で心理的に揺れ動く若いエクトルが絡まって進行してゆく。
65歳になったロマンは、退職が彼の心を蝕んでいて退屈している。おそらく彼は願望が見当たらない不安に苛まれて不機嫌になっているのだろう。突然、蓄積された彼の経験が全て失われてしまったかのようだ。
しかし彼が現役時代に、学生たちにとって感動的なことだったことは、ロマンが彼のクラスに霊感に満ちた哲学の手ほどきをしたことだった。
フランコ主義の末期の政治的に不安な時代だったが、ロマンにとっては英雄的時代だった。ロマンは彼のクラスに、どんなに現実的で誠実であろうと、政治的取り決めは、偉大な哲学的体系のなかで自己表現する取り組みよりも、重要でも信頼に値するものではないことを分からせたかった。
しかしそれも過去のことになってしまった。
その退屈な日々に、突然若い美男子のジャーナリストのエクトルが《過去の人々》がテーマのインタビューにやってきた。若者の厚かましさも彼を驚かせたが、倦怠を持て余すロマンの好奇心をそそった。
ロマンはエクトルを自分のピソに住まわせ、ロマンとエクトルの友人関係は急速に進んだ。
ロマンは独りの時には萎縮して、何時も同じ肘掛椅子に座り、部屋の同じところに居て、じっと動かずに年配の身障者のような人間のようだった。
そこでエクトルは最後には歓迎された有用な人間と自分を感じ、ロマンから物事を学ぶという感覚を持った。
エクトルはロマンに語る:『私は美男子の若者でした。13歳のときにある人間に私立学校で会いました。この男はベルナルドと呼ばれていました。2人の間には30歳以上の差があったでしょうから、父と子のような関係だったのは疑いありませんでした。ベルナルド氏は美男子でしたし、それは重要なことでした。高校卒業後に5年以上の長い間、ベルナルドと会っていました』
その時のロマンの態度は最高の侮蔑を呈していたが、それでもエクトルはロマンのピソに居続けた。
エクトルは最近数ヶ月のロマンを除いて、ベルナルドの他には友人は居ないし、持ったこともなかった。
エクトルは人生の全てをベルナルドを通して知ったのだった。
ベルナルドとの関係は、13、4歳の思慮の浅い時ですら、二人が秘密を守らなければならないがゆえに最重要なことだった。
ベルナルドとの関係がエクトルを無意識ながらペテン師に変えた。エクトルが親友を持てないのは自然であった。
ある日、エクトルはロマンに、ベルナルドが心理療法の診療所を開きたがっているので、ロマンのピソの1階下の使っていないピソを借りたがっているので協力して欲しいという。
診療所の件は全くの出鱈目でベルナルドはロマンをからかう積りだった。
エクトルとベルナルドの関係を知るロマンは断るが、好奇心とエクトルが家賃の保証人になることで渋々了承する。
ベルナルドはエクトルが高校を出るまで彼の私生活の全てを吸い取った。だからエクトルの人生で、ロマンの世界は予期せぬこと、新たなことを表わしていた。ロマンと共に居るために、可能なことは全て行った。しかし一方で、彼の人生から徐々に遠ざかるベルナルドとの関係も持たざるを得ないと感じる。
しかしエクトルは独り立ちした人生を持ち始めていて、ベルナルドを忘れ始めていた。自由を感じると同時に、ベルナルドを忘れることに罪悪感を持ち、忘れてはいけないと感じていた。
エクトルのアンビバレントな感情が形を取り始める。
エクトルの両親は食べるためには不正をしなければならなかった。そのために不法行為を犯し刑務所を出たり入ったりした。彼の面倒をみた虚弱体質の祖母は、彼を愛することは甘やかすことと理解していた。
両親が不在のエクトルは、色々な家で暮らすのに慣れて、リュックを背負って此方からあちらへと往き来した。決まった住所もなくエクトルは大学生活の大半を過ごした。
エクトルが13歳のとき当時、ベルナルドは専門学校教育の主任だった。波のうねりのような弁術の持ち主で、言葉のアヤで人をクモの巣のようにからめ捕る典型的なペテン師でホモだった。
少年のエクトルは、偉大な才能と凡庸な饒舌を、雄弁と巧妙な饒舌を明確に区分けできなかった。エクトルのように若くて孤立した若者にとって、真理の追究と巧妙な饒舌の仕分けは難しかった。ベルナルドの胡散臭い口調と他人の善を望む真実の口調を見分けるのは不可能だった。
ロマンはエクトルに云う:『ベルナルドは君を欺いているのは確かだ、君は《不条理ゆえに私はそれを信じる》の状態だ。君はベルナルドと一緒だと傷がつく』
しかしベルナルドと距離を置き始めているにもかかわらず、エクトルはベルナルドは独特のものの見方をする人間で、彼を正当に評価できる人間は殆どいないし、神ならぬあなたがどうしてそのようなことが云えるのか、とロマンのベルナルドへの評価に反発する。
ロマンは云う:『エクトル、ベルナルドは君を堕落させる。君はベルナルドが偉大で特異な天才ではなく、君を悪用し、決して自由にしない巧妙で抜け目のない人間だと知るべきだ』
以前、エクトルとロマンの二人には、エクトルがロマンのピソで暮らすのを自然なことに思えた。色々と話をしたし、彼らは友人だった。最初、ロマンはエクトルの同伴を感謝したが、ホモのベルナルドが下のピソに住み着いて直ぐに、奇妙な感情がエクトルとロマンの共存を難しくした。
エクトルはロマンと一緒に居ることは、愛情は意味しないが大きな知性の利益を生みだす別の関係を彼に分らせた。ロマンと物事を学び、議論し、ロマンと対等だと感じた。とくに、ベルナルドが彼に感じさせた可愛い子供、美しい子供、可愛そうな子供と感じたことはなかった。
エクトルにとってベルナルドの本質的なイメージは、ロマンと比較することで壊れはじめていた。
そのとき、ベルナルドが2カ月分の家賃を滞納して姿を消してしまう。エクトルは保証人の立場からロマンの家で居心地の悪さを感じるが金はない。
そこでチュエカのゲイバーで初老のホモを見つけ、交際の約束をして金を手に入れ、ロマンに返済する。金の出所を知ったロマンはエクトルをなじり不仲が決定的になる。
孤立感を癒すためと好奇心から、ロマンはエクトルとベルナルドを家に呼び込んだが愚弄されただけで、再び孤独と憂鬱の深淵に落ち込んで、ひたすら悔恨の日々を送るようになる。
その後、ベルナルドを信じ、頼り、彼を英雄的人物と思っていたエクトルは、実際にはベルナルドは好色な人間で、彼の人生の快楽は体の欲望に基づいているのを知った。
エクトルはベルナルドが若者に密かに媚を売り、性的な玩具にするのを見つけた。
最初のベルナルドへの愛情は見えなくなるまでに溶けて行ったが、未だエクトルのなかにはベルナルドへの忠誠心が永続していた。
しかし、最近分かったベルナルドのふしだらさが、ジンとウイスキーに酔ったエクトルの神経を襲った。
そして、街で出会ったホモ老人のエドゥアルドの益体もない饒舌がベルナルドの饒舌と重なって、彼の意識をエドゥアルドへの攻撃へと爆発させた。
突然エクトルは、エドゥアルドの居間のテーブルの上のブロンズ像を両手で掴み、ベルナルドが二重写しになったエドゥアルドの首筋に投げつけた。エドゥアルドは前に倒れて額をガラスのテーブルにぶつけた。
もう後戻りは出来ない。エクトルの頭はロマンとベルナルドの狭間で分裂し、彼の殺人という犯罪の責任を取るという意志のもとに、アロンソ・マルティネス駅で地下鉄に飛び込んだ。
エクトルの周りの人々は、誰も彼の死を悼んだり、罪の意識も持たなかった。残るのは都会の孤独だけだった。
誰がベルナルドを邪悪なものと云えるのだろう。ベルナルドの傍若無人な言動を許したのは、現代の臆病、無感覚、無気力、そして他人の痛みへの無関心ではなかったのか。
著者がロマンの条理の世界に対比させて、ベルナルドの世界を:credo quia abusurdum est《スペイン語にすればLo creo porque absurdo es(不条理であるがゆえに私はそれを信じる)ということだろう)と表現するのを読んで、学生時代に埴谷雄高氏の評論集:《不合理ゆえに吾信ず》を読んだときのことを思い出した。
内容はチンプンカンプンだったが、大略、人間は本質的に矛盾した混沌たる存在なので、人間の行動を科学的合理主義で理解しようとするのは不可能だということは分かったような気がした。
近代の科学的合理主義の過剰に反省をし、分かったつもりではいても、不条理とは常人にとって予測外の行動や思考様式を持ち、普遍的なことに同調しないことを意味するので、この小説のホモの世界を全く理解できない(しようとしない)僕にとって、《不条理であるがゆえに私はそれを信じる》の頭脳の柔軟性には程遠いようだ。