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秋の気配

 

いつものチングーディの入り江に行くと、空の青、雲の表情、北西からの風の温度や湿度の皮膚感に秋を感じるようになった。



30℃を越える日もあったが東京育ちの僕には苦痛ではなく、むしろ気持ちの良い初夏の感じだった。夜は掛け布団が必要だし。


暑すぎも寒すぎもせず、時に降る小糠雨が地の恵みをもたらし、カンタブリア海が豊富な魚介類を生み出すスペインとフランスにまたがるバスク地域は、天に祝福された恵まれた地と云うほかはない。


17の自治州のなかで一人当たり所得が一番高いバスク州は物価も高いが、東京に比べたら何ということはない。


何時まで続くのか分からないが、僕はいまの異常な円高を享受している。


インターネットの時代では、地方の小都市でも情報に不足することはないし、地方都市に届くのが遅い最新型の家電製品も、アマゾンで注文すれば2日後には自宅に届く。


むしろカヌー、ボート、カヤック、自転車、クロスカントリーで自然を体で堪能できるメリットの大きさを感じる。


イルンに引っ越すときには退屈するのではと思ったが全くの杞憂だった。逆に恵比寿にゆくと鬱陶しいなと感じてしまう。


新鮮な生魚は大好きだがワイン好きな僕は、ワサビ醤油よりもオリーブ油とゲランドやイビサの良質な塩で食するほうを選ぶし、寿司や豆腐や納豆は好きだが無ければ無いで済んでしまう。


ジャポニカでも、スペインで一般的なインディカでもジャバニカでもよい、僕は米が手に入って、気候が日本人の常識の範囲内であれば何処にでも順応できるようだ。



いつもと変わらない風景はのんびりと釣り糸を垂れる人たち。


僕は5年以上もこの風景を見ているが、一度も魚が釣れたのを見たことがない。


太公望にとっては、静かな入り江で、たまに飛来する小型旅客機を見ながら釣り糸を垂らすことに意義があるのかも知れない。素敵な風景だ。

 


 

 


Lauburu | スペインで | 16:43 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルン:夏の一日

 

サハラ砂漠上空の暑い大気の塊が北上して、スペインの南部と西部は40℃を越える猛暑の日々が続いている。

サハラ砂漠はどのくらい暑いのだろうか。

 

その高温の大気の塊が更に北に伸びると、バスク地方も30℃を越えることもあって盛夏の到来を感じさせる。(東京育ちの僕にとってはさして暑いとは感じないのだが、地元の人にとっては本当に暑いらしい)

 

この時期、海辺の街:オンダリビヤやサン・セバスティアンは人と車でごった返すが、イルンはかえって人が少なくなって静かなような気がする。

 

気温が30℃を越えても湿度は高くないので、僕にとっては自転車日和だ。

 

ビダソア川を渡ってエンダヤに入り、チングーディの入り江からサンジャンドリュズに向かう。

 

途中の坂の上に聖母の像があって、僕にとっては御地蔵さんと同じ感じなので、何時ものとおり敬意を表してから、サンバンサン小学校を過ぎてサンジャンドリュズに入る。

 

ここまではかなり起伏があって、脚の筋肉に張りが出たので海辺のベンチで一息入れる。

木陰は涼しくて気持ちが良い。

 


金子光晴の《人よ、寛かなれ》を自転車バッグから取り出してゆっくりと読み直す。

《…(僕:金子光晴は)ろくなおやじではない。こういう老人こそ、車にでもはねとばされたほうが、世直しの第一歩かもしれない…》

 

何時も思う。このような飄々とした老年を過ごしたいと。

夜の9時まで明るい北国では、太陽はなかなか傾かない。

気がつくと水を持ってくるのを忘れていた。生きたまま干物になるのは好むところではない。

さて、遊歩道を走って浜辺に行ってミネラルウォーターのボトルを買おう。


 


サンジャンドリュズの浜は長くて広く沢山の人で賑わうが、僕は双子岩の近くが好きだ。人々は日光浴か渚の水遊びをしているが、海で泳いでいる人は殆んど見かけない。




自転車道の脇のベンチに座って海を見ていると、僕の耳には波の音も人の声も届かず、時が流れているのだろうかと思うほどだ。

 



日本のマスメディアは相変わらずオリンピック狂想曲なのだろうか。


《金メダル、金メダルぅ〜》と全てのテレビ局が騒音を撒き散らしているのだろうか。


オリンピックは何時から、スポーツ好きには無縁の安手のナショナリズムと金まみれになったのだろう。
オリンピックの意義を考え直す時期に来ていると思う。 


画面を見れば状況が分かり、視聴者が思い思いに感慨に浸れるテレビで、独りで興奮して、キャンキャン吠えまくるスピッツのようなアナウンサーが何故必要なのだろう。

 

ヒトラーの墓跡から掘り出してきたような、聞いていて気恥ずかしくなる陳腐で大仰な美辞麗句はもうたくさんだし、人の気持ちを斟酌しない羞恥心のかけらもないインタビューアーの無神経さにもうんざりする。

 

僕はスポーツが好きなだけに、このような連中の一人よがりに腹が立つ。

 

こちらではTVE(スペイン国営テレビ)が放送するだけで、馬鹿げて高い放映料を払ってまで民放は放映しない(採算が合わないのだろう)。

 

入賞は出来なかったが、自己最高記録をだした陸上競技の女子選手がTVEのインタビューで:《最高にうれしい、幸せだ》と嬉しそうに云うのを聞いて僕もホンワカした。

スポーツの価値ってこういうものだよな、と。

 

『国費を使ってオリンピックに行って、根性も精神力もなく、入賞も出来ないとは何事だ』、とわめく人が多い国とは違うようだ。

 

豊かになっても、根っこに染み付いた貧乏性は抜けないらしい。

 

僕は根性も精神力もないので、そういう言葉を聞くと鳥肌が立つ。

 

もっと肩の力を抜いて、飄々と生きたいものだ。

 

 

Lauburu | スペインで | 15:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

耄碌爺さん、孫6人

 

イルンに心地の良い(日本人の僕にとっては)夏が到来して、4人の孫がロンドンからやって来た。

イルンの叔母の家とフランスバスクでの1ヶ月の夏を過ごしに。                              

 

イルンの2人を合わせて、孫6人が勢揃いするのに会うのは僕にとって初めてのことだ。



食後の後片付けは孫たちの仕事



サン・セバスティアン、オンダリビア、イルン、そしてビダソア川を渡ってフランスに入れば、エンダヤ、シブール、サンジャンドリュズ、ビアリッツ。

バスクには個性のある美しい街と海にはこと欠かない。

 

去年は湖水地方で夏休みを過ごしたロンドンの孫たちにとって、今年も素敵な夏休みになるだろう。

 

彼らにとっては、東京から九州の親戚を訪ねるようなものだから、ヨーロッパに住むことと日本に住むことの違いを感じさせる。

短時間の飛行で言葉の違う社会に身を置くことになる。そして違和感は無用のようだ。

 

14歳から5歳までの6人のうち、4人は英語と日本語を話し、2人はバスク語、スペイン語、日本語を話す。

そこで6人の共通言語は日本語となって、イルンに住む日本語を話す機会の少ない2人の孫たちには日本語習得のまたとない機会でもある。

 

孫は可愛い。

これは孫の養育責任を持っているのは親であって、祖父は《無責任》であるがゆえに一層孫が可愛いのだろう。

これを僕は何時も忘れないようにしている。立ち入り過ぎてはいけない。

 

僕は元気に走り回る孫たちを見ていると、3人の娘の向こうに、その次の世代の6人の孫がいる、という何とも云えない感慨が湧き上がる。

 

若い頃に読んだ無神論者で生物学者:リチャード・ドーキンス(Clinton Richard Dawkins)の言葉を思い出す。

《生物は遺伝子を後世に伝える運搬者(carrier)に過ぎない》

 

僕は八百万(やおよろず)の神の国で育った多神論者(politeísta)とは云えても、無神論者(ateísta)とは云い難いが、この文言には共感を持ったのだった。

 

そして中学生のときに読んだ森鴎外の《高瀬舟》の一節:

《人間、地位や財産の隔たりはあっても、たかが十露盤(ソロバン)の桁が少々違うだけだ》

と重ね合わせた。

 

そういえば才人:古川緑波(ロッパ)が歌った:

《お殿様でも家来でも 風呂に入るときゃみんな裸》

なんて戯れ歌があったっけ。

 

 

《いま僕は6人の孫たちを見て、遺伝子を後世に伝える生物としての本能的で基本的な、運搬人としての役目は果たしたのだ》、と実感している。

 

僕は鮭が産卵のために、母なる川を川底の石で傷つきながら遡上する姿に何時も感動する。

彼らは遺伝子の運搬を終えたら、命の灯が消えるのを知っているのだろうか。

もし知っているとすれば偉大なことだ。

 

6人の孫を持ち、もう任務を全うした僕は何時まで馬齢を重ねて行くのか。

必要以上の長寿が当人にとっても、社会にとっても本当に重要なことだろうか。

 

50年前には35億だった地球の人口は、現在は70億になった。

地球の人類扶養能力は限界に来ている。

 

《創世記》で神さまは、『生めよ、増えよ、地に満ちよ』と云われたが、今の人口爆発を見たら何と云われるのだろう。

 

天は20Q0年には《終世記》で、『生むな、増やすな、もう止めよ』と告げるかも知れない。

 

日本は少子化に悩んでいるが、その対策に少子化担当大臣を置いて子供手当てなどを考えているようだが、そんな単純な話だろうか。

 

少子化は社会的にあるいは家族的に、《生きること》に関する人間の価値基準が変わってきていることの表れでないのだろうか。

 

先進国で同性婚が認められ始めたのをみると、結婚して家庭を持ち子供を育てるという、旧来の固定観念は否応なく変えざるを得ないのかも知れない。

 

日本の社会は、この60余年で飢えから飽食へと激変した(敗戦後の飢えは今では想像も出来ないほど酷かった)。

 

敗戦後に、貧困からの脱出と女性の地位向上のために、加藤シズエ氏がGHQの後押しでマーガレット・サンガー夫人を米国から招聘して、性を話題にすると揶揄されながら日本全国を産児制限キャンペーンで行脚したり、慶応大学教授の医学博士で推理小説作家(ペンネームは木々高太郎):林髞(はやし たかし)氏が、人口抑制をテーマに《人生二度結婚説》なる珍説を唱えたのは、高々60余年前の話に過ぎないのに。

 

 

 

Lauburu | スペインで | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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