2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2012.11.23 Friday
60年も日本で生きた人間でも、イルンで生活していてスポーツや読書や食事の環境には何の不足も感じない。
しかし春先にビンナガマグロでタタキを造って食べたりすると、カツオやブリやサンマの味が蘇って懐かしく思うことがある。
そういえばプルーストのなかで、《不揃いの敷石が主人公に過去を思い出させる》という場面があった。
思い出して懐かしく思うのは、ほんの微細なキッカケなのかも知れない。
ジャズには比較的縁遠いスペインにいると、10歳の時から馴染んできたジャズがむしょうに聞きたくなるときがある。その時に便利なのがYouTubeだ。
そこで偶然見つけたのが、夭折した天才ジャズピアニスト守安祥太郎が1954年に横浜伊勢佐木町のナイトクラブ、モカンボでのジャムセッションの録音だった。
守安の演奏の録音の唯一のものだろう、と思う。
60年近く前の守安の音は今も陳腐化していない。
そして約60年前の出来事が蘇った。
15歳の時だった。
僕と同じようにジャズが好きな横浜関内に住む学友が、夏休みに入った1954年
7月下旬に僕を誘ってくれた。
『伊勢佐木町2丁目のモカンボで守安も参加するジャムセッションがあるぞ。24日の深夜だ。後は僕の部屋に泊まればいい。クラブは僕たちのような子供は入れてくれないが支配人を知っている人に頼んで楽屋裏から聞けるのだ』
僕は一も二もなかった。
宮沢昭を加えた4重奏は今でも耳に残っている。レスター・ヤングを彷彿とさせる宮沢のテナーサックス。だが守安のピアノは僕にとっては新鮮だった。
米国ではマンネリ化したメロディーを重視したスイングジャズを抜け出す動きとして、アドリブを重要視するビーバップ(bebop)が勢いを増していた時代だ。
その流れを守安は感覚的に掴んだのだった。
ビーバップを引っ張るピアニストのバッド・パウエルやセロニアス・モンクとは違う。守安は日本人の感覚に合う音を奏でていた。見かけはナヨナヨしていたが主張はすごかった。
1955年9月29日、僕は朝食のときに明日で16歳になるのだなあ、小型自動車運転免許証がとれるのだなあ、思いつつ新聞を見ていた。
突然、身体がこわばった。小さな記事は伝える、《昨日、守安祥太郎氏が国鉄目黒駅で鉄道自殺。享年31歳》
僕は都電の7番で登校する時に考えていた。守安は孤独だったのだろう。
米国では実力者たちがビーバップから次のモダンへと多士済々が妍を競い切磋琢磨していた時代だった。だが守安をジャズ市場は受け入れなかった。
孤独の堂々巡りのうちに出口の見えない迷宮に入り込んだのではないのか。
守安の死後、宮沢昭も暫く活動をしていないのは何故だったのだろうか。
それから僕は少しジャズから距離を置くようになったが、翌年の1956年の学園祭の時に講堂から《There will never be another you》の素晴らしいピアノソロが聞こえる。
中学生の山下洋輔だった。
そして僕はまたジャズにまた寄り添うようになった。
他界する直前の守安祥太郎と少年時代の山下洋輔、二人の天才ジャズピアニストを聞けたジャズファンも珍しいのではないだろうか。