2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2013.01.25 Friday
僕は感傷的なタイプとは程遠い人間だと思う。
しかし今日の日揮の社長の記者会見を聴いていて、その我慢強さに涙が止まらなかった。
僕はマスメディアを全くばかにしているので、彼らが受けを狙った編集をしているのは承知の上での話だ。
いま僕は、この悲劇…陳腐な表現だが…を聴いて30年来苦しんできたトラウマを吐き出して楽になりたい衝動が突然に駆られた。
1979年10月のアメリカ。
ロスアンジェルスから空路ニューメキシコ州の商都アルバカーキーの街を俯瞰すると、広大な赤茶けた土くれの中でリオグランデ河に沿って固まった街、良くわからないが多分ナツメヤシの木が沢山ある街が眼下にあった。
州都のサンタ・フェに行くためのアルバカーキー。
僕はトヨタのカローラをレンタカーしてサンタ・フェに行って新型発電機開発の打ち合わせをして、その帰りの途中だった。
突然、ピックアップトラックが警笛を鳴らしながら前方に割り込んできた。僕はレンタカーだから狙われたと直感した。2人の男が現れた。
もう遅い。拳銃を突きつけられ持っているものは全てはぎ取られ、後頭部を拳銃の
台座で殴られて一段下の荒れ地に蹴落とされた。
そのときに僕は11歳と7歳の双子の3人の娘がいた。瞬間的に頭に浮かんだのは恐怖を飛び越して、オレが死んだら、という思いだった。
10月で良かった。
もし8月だったら、ハイウェイ・パトロールが路傍の違法駐車に気がついて僕を見つけたときには息絶えていただろう。
アルバカーキーのホテルにパスポートや重要カードを預けていたのは正解だった。
サンタ・フェの警察は我々は捜査を続けるが、ここに日本領事館はないのでロスに行って被害を報告するようにと云ってくれた。僕はハイウェイ・パトロールには感謝している。
僕はこの件は家族にも会社にも大使館にも一切云わなかった。
家族には心配をかけたくなかったのと、過去の経験から日本の外務省に何を云っても無駄だと思ったから。
僕はいまだにその悪夢にうなされる。
アルジェリアから生還した7人の人たちは一生十字架を背負って生きなければならないのだろう。
それもまた地獄だと僕は理解できる。
自分は安全地帯にいて危険を覚悟で仕事をする人たちに対して、誰もが反論できない綺麗ごとを赤面もせず主張する人たち、僕は彼らと倶に天を戴く積りはない。
2013.01.21 Monday
僕のアルジェリアについての知識は、カミユの《異邦人》とフォーサイスの《ジャッカルの日》から得た貧弱なものにすぎない。
しかしテロリストへの対峙の仕方が日本と外国の違いは根本的に異なると感じたことを思い出させてくれた。
1977年の日本赤軍によるダッカでの日航機ハイ ジャック事件で、犯行グループが高額の身代金と日本で服役中の過激派や爆弾犯を解放するよう要求した時に、福田赳夫首相は《人の命は地球より重い》として日本赤軍の要求を飲んでしまった。当然海外から非難されたことはいうまでもない。
アイルランド独立運動組織:IRA暫定派のボビー・サンズが1977年にイギリスで拘束されたとき、政治犯としての権利を剥奪され犯罪者として扱われた。これに対してボビー・サンズは政治犯としての復権を求めて1981年にハンガー・ストライキに入った。
ダッカ事件の直後だけに僕はマーガレット・サッチャー首相がどのような対応をするのかが関心事で、毎晩VOAの短波放送を聴いていた。
VOAのレポートでは日が経つにつれてサンズは衰弱してゆくが、サッチャーはテロリストとは取引しないとして頑としてサンズの要求をはねつけた。そして2カ月後にサンズは衰弱死した。
僕は知らなかったが餓死はそのまま衰弱死するのではなく、全身に激痛がはしる断末魔の死であることをVOAのレポートで初めて知ったのだった。
まさに《鉄の女》と《鉄の男》の壮絶な戦いだった。
その後のテロリストへの世界の対応を見てみると、人命尊重は優先事項だが《テロリストとは妥協せず、ただ殲滅するのみ》が絶対に曲げられない大前提だと云うことが良くわかる。
海外で邦人が危険に曝されても自衛隊機は救援に出動できず、民間機をチャーターすれば自己責任だから救援費用は自己負担だという声が大きくなる。
国家の存在価値があるのは《国民の生命と財産を守る》からではないのか。日本人には国家意識と云うものが存在しないようだ。
国家意識などと云おうものなら右翼だ反動だとノイジー・マイノリティーがわめき立てる。
海外に居住したり仕事をしたりする日本人は、何が出るか分からない密林の中で丸腰で孤立無援で暮すようなものだ。
アルジェリアで命を落とした方々には哀悼の言葉も見当たらない。
日本人は日本ガラパゴス列島に閉じこもって、薄眼を開けて日光浴しているのが一番無難なようだ。
Qué será de tí y adónde irás.日本よ、君はどうなるのだい、何処に行こうというのか。