2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2013.04.16 Tuesday
2013年度ナダル賞:《オン・エア:Estaba en el aire》の受賞者Sergio Vila-Sanjuánは1957年バルセロナ生まれで、現在は《バンガルディア》紙の別刷の文化欄のコーディネーターだそうだ。
氏の文章は、豊富なエピソードを素早く切り替えながらストーリーを展開するストーリーテラーの典型で、60年代のバルセロナの風俗を描き出している。
本書は1960年代のバルセロナを舞台に、プラデバル工業の薬剤・化粧品部門のマーケッティング幹部社員フアン・イグナシオと、彼の至上のボスで、内戦後の統制経済下で権力と組んで大麦や小麦を手に入れ、闇市場に横流をして財をなした新興企業家カシミロ・プラデバルを狂言回しにして展開される。
風邪薬《リノミシナ》の販売促進のキャッチフレーズ:《リノミシナを飲みましょう、でないと風邪をひきますよ》をテーマに、フアン・イグナシオが発案したラジオ番組《リノミシナの尋ね人》の展開を軸に:
・内戦後の孤児と離散家族の苦悩と再会の歓喜
・フランコ政権の内戦時のあら捜しになる可能性がある尋ね人番組への検閲
・共和派とフランコ派の間を風見鶏のように飛びまわった特権階級の地位保全と蓄財
・その大金を狙うペテン師
・金と暇にまかせた連中の火遊び
などが絡み合って、1960年代のバルセロナを映し出している。
ラジオ番組《リノミシナの尋ね人:Rinomisina le busca》は全国ネットで25の放送局から1960年秋から1962年春まで放送されたという。
《リノミシナの尋ね人》番組のキャスター、ルイス・ルペレスは当時のバルセロナで最も有名なジャーナリストで、マイクの前に座るたびに3000万人聴取者(当時のスペインの人口は約3500万人)を恍惚状態にする《典型的なラジオ人間》だったようだ。
著者はこの小説を年代記風に、1960年台のスペイン、つまりスペインが内戦後の停滞から抜け出し、テレビの販促効果に後押しされて消費社会へ変貌する時代のバルセロナの数年を描いている。
《リノミシナの尋ね人》に代表される未だ内戦の傷跡に苦しむ人たちと、資産を政情不安なスペインから海外に移して(フランコ政権は認めていない)、更なる資産の運用を図る特権階級を対比させて、当時のバルセロナの(あるいはスペインの)矛盾に満ちた二面性を浮き彫りにしている。
著者のSergio Vila-Sanjuánは《バンガルディア》紙の文化面のジャーナリストだったとき、様々な事件を耳にし、内戦時にスイスに避難したアントニオ・ルナの話を聞いた。
この小説で紹介された、多くの別離と再会のエピソードの中で軸になっているアントニオ・ルナの人生は、著者が1960年から1962年に放送された《リノミシナの尋ね人》の感動的な実話の一つとして取り上げられている。
アントニオの話とは:
フランコ軍の爆撃にさらされる共和政権本部があるバルセロナから、アントニオ一家が逃れるとき、母親はアントニオを逃走するトラックに乗せることは出来たが、母親と弟は乗ることが出来なかった。
内戦後に避難先のスイスからスペインに送還されたアントニオは、幼年期の大半をサンタンデルの孤児院で過ごした。
16歳になって、彼は故郷のバルセロナで再び生活を始めよう、別れた親族の消息を知ろうとしたが、バルセロナに着いたとたんにそれまで地方の自動車修理工場で働いて貯めた全てを騙され脅されて盗られてしまう。
遂には、貧しいが親切なヒターノ部落に転げ込むはめになる。
家族と再会するという期待を抱いてはいたが、バルセロナでの幼年期のおぼろげな記憶は殆んど彼の出自を明らかにはしない。
彼は生きるために不向きな仕事に就いた後で、スペイン発展の象徴であるSEAT自動車で将来性のある仕事に就いて組み立てラインで第一歩を踏み出す。
乏しい日給ながらヒターノ部落から安宿に移れるようになって、僅かな暇を見つけて警察に家族の捜査願いを出しに行くが厄介払いされるだけだった。
そして社会活動事業団体に行っても、内戦の記憶を忘れたい我々には何も出来ないが、《リノミシナの尋ね人》番組に手紙を書いたらと助言される。
しかし手紙を出しても番組の検閲…孤児は敗退した《赤》の産物だと…が厳しくてなかなか放送されない。
フランコ政権の経済的開放政策にもかかわらず、工場で労働者たちは戦闘的な労働組合運動の計画を練り始める。
善人で世間知らずのアントニオは隠れ共産党員のオルグの標的になり、耳を傾けているうちに《赤》の濡れ衣を着せられてSEATから解雇される。
その後で、彼は真面目さを見込まれて豚肉加工食品で店員として働くようになる。
フアン・イグナシオが警察で脅されたりした紆余曲折の後で、アントニオの話が電波に乗って大きな反響を呼び、色々な検証のあとで母との感動的な再会が実現する。
僕は《リノミシナの尋ね人》の放送の内容を読んでいるうちに、日本の敗戦後に放送されたNHKのラジオ番組《尋ね人》を思い出した。
NHKの番組ではアナウンサーは淡々と訴えていたが、ルイス・ルペレスは違ったようで、マイクの前で吼え、怒鳴り、汗をかく自己顕示欲の強い人だったようだ。
著者はラジオ番組《リノミシナの尋ね人》を小説の軸にしているので、僕は《オン・エア:Estaba en el aire》としたが、この小説が描く,僕が印象付けられた1960年代のバルセロナの雰囲気を、後にバブル崩壊に到る日本の高度成長期の根無し草のような状態に照らすと、むしろ《足が地に着いていなかった:Estaba en el aire》とするほうが気分的にはしっくりする。
《リノミシナの尋ね人》で示す社会の底辺で内戦の傷跡に苦しむ人たちと対比させて著者は:
・郊外の豪邸で料理人や召使にかしずかれて会食しながら、資産の運用を話し合う特権階級
・国の規制の外側の外国で不法に蓄財する資産家
・土曜の夜から明け方までナイトクラブでフランスのシャンパン(スペインの発泡酒ではなく)に浸りながらの情報交換で、ビジネスチャンスを求めるカシミロのような新興企業家たち。
・海辺の避暑地で他愛のない悪ふざけにふける裕福な家庭の子女たち
を描きだしている。
さて、その後は…
フランコ軍の爆撃で孤児になったアントニオの放送の反響の大きさは中央政府の警戒の的となり、経営者のカシミロは中央政府の指示で《リノミシナの尋ね人》の中止を決める。
カシミロは自分の企業グループの強化のために、マスメディアへの進出を考えており中央政府との軋轢は避けたかった。
放送時間には多くの町が機能停止するほどの社会現象にもなった、フアン・イグナシオの《リノミシナの尋ね人》番組の企画力は評価しても、風邪薬リノミシナの売り上げは急上昇しても、カシミロの企業家の野心の前では、フアン・イグナシオは《単なる捨て駒》に過ぎなかった。
意気消沈するフアンにカシミロは新たなマスメディアへの転進を促すが、グループ内では彼はもう過去の人だった。
そこで彼は広告代理店を設立して50人のスタッフを抱えるまでに成功したとき、有利な条件で多国籍企業に売却する。
長年のストレスから彼はアルコール依存症になり、不貞行為も発覚して結婚は破綻し、彼はサナトリウムに入る。
中毒から抜け出した彼は80歳代になっても読書に励んでいる。
アントニオは長年別離していた家族と3年近く同居したが、孤独に慣れた彼は次第に違和感を感じ始める。
バルセロナよりも、長年過ごしたサンタンデルの街の大きさや気候の方が好きなのと、擁護施設時代の友人もいるのでサンタンデルを度々訪れるようになり、そこで豚肉加工食品店が責任者を探しているのを知って転職する。
そして彼は逆にバルセロナの親族を、2003年に肺がんに襲われるまで定期的に訪れることになる。
風邪薬《リノミシナ》のスポンサー企業プラデバル工業のスーパーバイザーは、著者の父親のJosé Luis Vila-San-Juanであったという。
著者はこの本は事実をベースにはしているが、登場人物は全て創作だと云ってはいるが、フアン・イグナシオは著者の父のイメージなのだろうか。
2013.04.06 Saturday
殺人や人権無視を前提とする戦争や侵略は、人間を狂気にしなければ不可能なことは歴史的事実が証人となっている。
だから僕はアジアで日本軍が行ったと云われる蛮行は否定できない。そして繰り返してはいけないと反省すべきだと思う。
だがしかし、頭を下げれば、ひざまずけと云い、さらには土下座しろと云われて従えば、何の建設的な要素もない惨めなサディズムとマゾヒズムの世界だと思う。
僕は学生時代に読んだ福沢諭吉の論と云われる《脱亜論》を思い出す。
僕の勝手な解釈では、福沢はアジアの連携を理想に描いたが絶望したのではなかったか。
僕は朝鮮民族の歴史的孤独は理解できるが、感情的な嫌日が彼らに何をもたらすのか。自己陶酔に過ぎないのではないか。
僕はスペインにいて思う。日本人の誠実さ、几帳面さは素晴らしいと。他の国に何を云われても動じない自信を持つべきだと。
日の出の勢いの中国に欧米は一応敬意を払ってはいるが、それは経済的に利用価値があるからで新黄禍論が垣間見える。
老練な欧米人にとって、日中韓の意地の張り合いは好ましいことなのだろう。
福沢の予感はいまも生きているようだ。