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食文化の違い

 

僕はTVEの番組でスペインの食文化を紹介する《Agrosfera》を毎週見ているが食文化の違いでショックを受けることもある。

 

スペインには《マタンサ》という豚にとっては厄日とも云える日があることは知っていた。だがテレビの映像で見たのは初めてだった。

 

子どもも含めた一家総出で豚を横にして喉を鋭い刃物で切り裂く。豚は苦し紛れに長い舌を飛び出して絶命。吹き出す血は塩の入ったバケツで受ける。

その後、毛を焼き、皮をはぎ、肉は鼻面から耳まで、そして内蔵まで利用する。血液はソーセージに使う。

 

以前、仕事で北ヨーロッパに駐在していた友人が夕食に招待されたとき、大皿のシチューの上に煮込まれた牛の面皮がのっていたので驚いたという。

ヨーロッパ人の家畜との付き合いと我々の付き合い方は全く違っているようだ。

 

我々は肉屋で精肉を買うが、その前段の畜殺はブラックボックスの中に入れてしまっている。そしてこれが差別を助長したという暗い歴史がある。

 

米国の大リーグ野球を見ていると、ピンチで強打者が出てくると監督が指を四本立てて投手に《歩かせろ》と指示する仕草をよく見かける。

初めてこの仕草をみたとき僕は一瞬エッと思った、そしてこれは米国の映像だとホッとした。
Lauburu | スペインで | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

言葉とは

 

僕は人の考えは尊重するけれども、自分で物事を確かめないと判断を間違えるぞと何時も自分に言いきかせてきた。


僕は高校生のときに本で読んだ、ナチ空軍に命をかけて撃退した英国空軍パイロットを賞賛したチャーチルの言葉:


『長い人類の闘争の歴史の中で、これほど多くの人が、かくも少数の人に助けられたことはかつてなかった』が印象的だった。


本当なのだろうか。


10年以上前にロンドンの地下鉄《北行き線》に乗って地上にでてからしばらく行って、英国空軍博物館があるコリンデールを訪ねた。


僕は飛行機オタクとはほど遠い人間だ。だがメッサーシュミットを軸にする強力なナチ空軍を撃退したと云われる英国空軍のスピットファイアーはどのような戦闘機なのか。


その単座式の若鮎のような姿の隣にはズングリしたハリケーン戦闘機が並んでいた。だが解説書を読むと旋回性能がよいハリケーンが主力であったこと、そしてパイロットの腕前が最も重要だったという。


チャーチルのこもった声が覚えてしまうほど何度も聞こえた。そしてメモした:


Never in the field of human conflict was so much owed by so many to so few.

 

Lauburu | スペインで | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルンでの8月15日

 8月15日はスペインでは《聖母被昇天の日:La Asunción de Nuestra Señora》の祝日で、金曜日も含めて4連休になるので人の移動が盛んになるのだが、カトリックとは縁のない僕には商店が休みだという不便さしか感じない。


815日、僕が5歳のときだった。疎開先の山奥の藁葺きの家で、多くの人が集まって正座してラジオを聞いて涙を流していた。僕は意味が分からず無邪気に外で遊んでいた。突然、家の中から大人が出てきて《やかましい》と云われて突き飛ばされて小さな池に転げ落ちた。 僕が覚えているのは目の前に鯉がいたことと、池の中から見た空が真っ青だったことだ。暑い日だったと記憶している。


東京にいるとき、僕は千鳥が淵の近くに自転車で行くと無名戦士の戦没者墓苑で黙祷するし、境内には入らないが靖国神社の方に向かって、召集令状一枚で死に追いやられた人たちにも黙祷している。


僕は二言目には歴史認識を持ち出す中韓政府に同調する気は毛頭ない。まして民主選挙で選ばれた他国の政権を、自国の意に沿わないからと批判し揺さぶる傲岸さには呆れるだけだ。        


しかし政府の幹部が靖国を参拝することの《愚かしさ》をつくづく思う。300万人の日本国民を殺した戦争指導者の靖国合祀を否定しなければならないのは当の日本人のはずだから。


僕は第二次大戦後の最大の《建設的虚構》は、《ヒトラーのナチとドイツ国民は違う、ムッソリーニのファシストとイタリア国民は違う、日本軍国主義者(不思議なのは固有名詞が出てこないことだ)と日本国民は違う》ということだろうと思っている。


人間はそんなに割り切れるわけがない。しかし人々の怨念を緩和するためには必要な虚構なのだった。


そして損得勘定が出来るドイツもイタリアもその虚構に沿って行動してきた。そしてドイツとイタリアは平和国家と世界が認めている。                          なぜ自国を護りうる軍隊も持てない日本が平和国家と認められないのか。


靖国神社での14人の戦犯の合祀と、政治家の参拝はこの《建設的虚構》を自ら壊してしまった:                                                     《軍国主義者と日本国民は一体だったのです、今の日本国民は軍国主義者の末裔で同類なのです》と。


漱石流に云えば自分勝手な《勇み肌の坊ちゃん》だ。世界での損得勘定を計算できないことの愚かしさを思う。


『我々は軍国主義者とは違います、違う良識を持った国民なのです』とは云えず、僕ら戦争を知らない世代が過去の責任を引き受けなければならなくなっている。 まったく馬鹿げた話だ。


この靖国合祀の過誤は未来永劫日本人を苦しめるだろう。民族が存在の正当性を主張するためには、切り捨てることは平然と切り捨てる非情さが必要だった。もう遅すぎるが。                                            


一億総懺悔などと云って頭を下げれば身をかわせるのは日本国内だけの話で、《殺した側》と《殺された側》を峻別する方が先だ。


《付記》                                                  1: 僕は日本共産党綱領を読むと彼らとは絶対に相容れないと実感する。         だが対米英戦争を指揮する軍国主義者に多くの命を拷問と虐殺で失ってまで戦ったのは日本共産党だけで、いまあの無謀な戦争を真っ向から批判できるのは日本共産党だけだと思う。国会図書館に行って戦時中の主要新聞を読んでみよう、日本共産党とは全く違って提灯持ちの記事であふれている。


2: 戦争指導者を戦犯と称するのは勝者の論理だと云うかも知れない。では食料も武器も補給せず、ただ《生きて虜囚の恥かしめを受けず》と云って百万以上の兵士を餓死と玉砕に追いやった戦争指導者や、軍部に抵抗する市民を虐殺した特別高警察幹部を日本人は自ら裁断したのか。                 


3:敗戦後に大人が:《すべては天ちゃん(昭和天皇)の責任だ》と云っていたのを当時6歳の僕でもはっきりと覚えている。《面従腹背》という言葉を中学に入って漢文の時間に教わったときに、僕は奇妙にも言葉の意味を納得したのだった。

 

 

Lauburu | スペインで | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

前提を整理する習慣を身につけようよ

スペインは首相が以前から裏金を得ていたという醜聞が広まって国会での追及が行われた。  追求する野党に対して与党の判定勝ちのような気がした。

スペインも日本と同じで政界のいい加減さは大したものだが、議会でここまでやり合うとは結構やるではないかと思ったりした。


僕は頭の回転が鈍いので何時も物事を単純に整理しないと考えがまとまらない。


沖縄へのオスプレイの増強で沖縄県民が怒るのは当然だと思うし、今こそ日本人の考え方を整理しなければならない秋(とき)に来ているのだと思う。


第1:   中国の動向には関係なく日本はあくまでも平和国家であるべきだ。日米安保条約を破棄し沖縄をはじめ日本国内の米軍基地は廃止する。自衛隊は災害時の国土防衛隊としての存在価値だけは認めると決断するのか。


第2:   今の東アジア情勢から見て日米安保条約は重要だ。                       

その1:今の米軍能力を増強する必要があるのか。                              

その2:日米安保条約の下で米軍の増強を抑えて自衛隊を国軍として増強するのか。    

その3:沖縄だけに負担をかけずに日本全体で分担する気はないのか。           


マスメディアは自分の基本的な立場を明らかにしないでオスプレイ反対もないだろう。


副総理の軽率さは分かってはいるが、いま日本では朝日や毎日が盆と正月が一緒になったようなお祭り騒ぎなのだろうなと思って、僕はジントニックを飲みながらキーを叩いている。

Lauburu | スペインで | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

日本国憲法

 スペインの田舎町から一言

《憲法とは権力者の恣意から国民を護るものである》という最近の論調は一見尤もらしい。    

しかし今の憲法は権力者ではなく天の啓示によるものだろうか。                   

憲法が制定された1946年の権力者はGHQだった。仇討ちものが多いという理由で歌舞伎を禁止しようとしたほど、米国は平和憲法で日本を骨抜きにしたかったのだろう。            

俗に言う平和憲法のおかげで日本も《ただ食いただ呑み》で高度成長を遂げたので文句を言う筋合いはない。

だがある時代の権力が制定した憲法を掲げて《憲法とは権力者の恣意から国民を護るものである》というのはご都合主義の論理矛盾ではないのか。


《憲法》という二文字を見ると、右も左も発狂してしまうのを見ると《少し落ち着いて思索したら》と思うのは僕だけだろうか。
Lauburu | スペインで | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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