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イルン雑感〜4

 

ユーロが危機を乗り越えて安定してきた。昨今の130円を超えるユーロ高は僕にとってはありがたくないのだがホッとしている。

通貨の統一という人類史に例のない事業は絶対に挫折させてはならないと思っていた。

世界のGDPを見てみると、米国が16兆ドル、日中韓が15兆ドル、ヨーロッパ共同体が13兆ドルとなっている。欧米にとって将来の潜在力から見れば日中韓がスクラムを組むのは驚異なはずで、日中韓が戦争を起こさない限り、いがみ合いをしているのは好ましいことなのだろう。

発足当時のヨーロッパ共同体は旧キリスト教国という共通項があったが、日中韓の間には人生観の裏付けになる共通項が見当たらない。いがみ合いは顕在潜在を問わず永久に続きそうだ。

 

 

レッドソックスの上原投手が話題になっている。大リーグの猛者が空振りばかりしている、球速はないのに。

いま僕は30歳くらいの時の草野球を思い出している。会社のグラウンドでバッティング遊びをしていたら、プロからも誘いを受けた大先輩がバッティング投手を買って出てくれた。流石だ、捕手のミットに一直線で届く。打者はバットが出ない。

《ボールが伸びて、バットが出ないのだ》《でも横から見ていると真っ直ぐなだけだけど》《じゃあ君が打ってみろ》

僕は打席に入った。投げたボールが目の前でピョコンと跳ね上がる。バットを振るどころではなかった。

なぜ飛び上がるように見えるのだろう。

人間は太古の昔から物は放物線を描いて落ちるということが頭に刷り込まれているのではないか。だから放物線を描かないものに対峙したときには飛び上がるように見えるのではないのか。

不思議で貴重な経験だった。

 

 

Lauburu | スペインで | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルン雑感〜3

 

イルンに居て塩野七生氏を読み直す。

イタリア史の深い知識には敬意を表するが、文章力がもっとあったら素晴らしいなとつくづく思う。

スペインで学術的歴史書は数多く読んだが、学術書である以上無味乾燥なことは不可避だ。

そこで歴史を物語にして、分かりやすくする司馬遼太郎氏や塩野七生氏の価値が出てくる。

日本では司馬氏を罵倒する人はあまり居ないが、塩野氏を罵倒する人は多い。

そのうちの最たるものは:《イタリア人と結婚してイタリアに住んで、イタリアからの目線で日本を評価するのは不遜だ》というものだ。

彼らは日本に生まれ育った人間は、何処に住もうと日本人の視点を無視して物事を見ることは不可能だということが分かっていない。

蛸壺人間になってはいけないと自戒する。

 

 

任天堂の山内氏が亡くなった。

氏は日本人にMLBの球団を売り渡すのかという反対にもかかわらず、1991年に財政的に瀕死のマリナーズの筆頭株主になった。

これがマリナーズの経済的救済の功績と、反面で低迷の引き金になった。

企業家のMLBのオーナーは常に現場に目を光らせている。氏が日本に居て良きに計らへの結果、マリナーズのGMの無能さ、スカウトの無能さは際立っていた。

マリナーズは組織(オーガニゼーション)の制御が出来なくなっていた。

 

 

朝鮮戦争時に軍属として日本に来ていた4割打者テッド・ウイリアムズの影響で僕はレッドソックスの永久ファンになった。

昨シーズンは監督の無能さで地区最下位になったので今年も諦めていたら、傑出した選手はいないのに何とダントツの地区優勝。自分勝手分子を放出してまとまったせいだろう。

僕はイチローは傑出した選手だと思うが好きではない。自分本位の行為がチームに良い影響を与えるはずがないから。

彼の言葉をまるで天のご託宣のように報道するマスメディアにも呆れるが。

Lauburu | スペインで | 05:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルン雑感〜2

 

米どころのスペインでは米は野菜として良く食べられる。だが長女の連れ合いに代表されるように白いご飯を食べるのは苦手だ。

 

米国で地方都市を転々として仕事をしていると無性に洋食が食べたくなって、地方都市ではステータスの高い紅花に飛び込む。

 

大きな鉄板を囲むカウンターには品の良い老夫婦が僕の隣にいた。曲芸もどきのナイフ捌きでミディアムレアーの肉を切り、ご飯とともに差し出される。

 

隣のカップルはご飯に醤油をかける。僕は肉に醤油をかけて肉にご飯をのせる。

隣もまねをする。そしてにっこり笑って《素晴らしい》という。

 

以下は拙い英語での会話:

《美味しい米の食べ方を教わりました、日本では普通のことですか?》

《日本では米を汚すことだと馬鹿にされますから日本のレストランではしません》

《では何故あなたは今のような食べ方をするのですか?

《僕は今、アメリカにいますから。米が肉の温度を下げないのとグレービーを含んだ米が美味しいからです》

 

 

 

食のバスクでもパエージャはあるが僕は食したことはない。わざわざ食べるほど好きではないから。

 

魚介類は20分以上煮ると汁にはエグミがでるし具は味が抜ける。

僕はパエージャの上に乗っている魚介類の出し殻は遠慮して、旨味を含んだ米をせっせと食べる。僕は魚介類の煮汁だけで煮込んだ具なしのパエージャ(arroz a banda)は好きだ。

 

パエージャやブイヤベース、そして番屋鍋や株数鍋(かぶすなべ)は漁師が傷んで売れない魚を大鍋にぶち込んで食べたのが始まりだという。

 

学生時代に富山の飯屋で食べた株数鍋は、魚と味噌仕立ての煮汁を分けてあって、味噌汁で飯を食いながら魚を食べるのだった。

 

後日ブイヤベースを知ったとき、この食べ方は株数鍋の発想と同じだな、魚の美味しい食べ方は漁師が一番知っているのだな、と思ったのだった。

 

蛇足ですが米ジャンキーの僕にとって、甲殻類の濃厚なだし汁で煮込んだガリシアの《おじや風》は本当に美味い。

 

 

 

逆説的な云い方だが、いま地球に一番貢献しているのは飢えに苦しむ人たちではないのか。

 

地球が45億年で育んできた宝を、我々は僅か100年で食い尽くそうとしている。

 

毛沢東は云った:《人民が食えなくなると革命が起きる》。

為政者は資源の浪費を心配するよりも、国民に潤沢な食料や物資を供給することが先決で戦争すら辞さない。

 

地球資源の保護は経済の縮小均衡になると思うが、これは絶対に必要なことだ。

我々先進国民は耐えられるのだろうか。

 

《食べられるものを捨てはいけない》ということを分からない人をどのように諫めるのか。我々はその手段すら見つけていない。

 

 

 

 

美味しいイベリコ豚の生姜焼きを食べながら、僕は何の学問的根拠もないことを想像した。

 

何故スペインの豚は美味しいのか。

800年に及ぶイスラムの占領下でキリスト教徒はせっせと豚を品種改良して、意趣返しにこれ見よがしに食べたのではなかったか。

 

では何故イスラムで豚肉はタブーなのだろう。

羊や牛は人間が食べない草を食べて肥育するが、豚は人間も食べる雑穀を食べる。そして肉の収率は食べた餌の25パーセントに過ぎない。気候の厳しいアラビア半島で人々が濃厚な豚肉の味を覚えたら大変なことになる。

 

では《豚を食したら死刑だぞ》で済まなかったのだろうか。死刑無用論者のカミュが書いている:《見せしめにスリの常習犯をギロチンにかけるとき、集まった群衆の中でスリをしていたヤツがいた》

 

死刑でひるむほど人間は柔ではない。我々が人肉を忌避するように豚肉を忌避させるには宗教的に心理的嫌悪感を刷り込む必要があったのだろう。

 

Lauburu | スペインで | 18:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルン雑感

 

僕は6人の孫を持ったときリチャード・ドーキンスの言葉を思い出した:《生物とは遺伝子を後生に伝える運搬人に過ぎない》。

そうだオレの仕事は終わったのだ。無用の長生きは資源の浪費に過ぎない。ならば目一杯飲んで食って読んで自転車に乗ってコロッと行こうではないか。

 

そこでモームの小説《ロータス・イーター》を思い出す。余命と預金のバランスの中で焦りまくる男を軽いタッチで描いている。

男は幸いにも貯金が尽きたときに大往生するのだが、その描写が印象的だった:

《男は小石を投げ上げたとき、途中で止まって落ちてこないのを不思議そうに眺めている目つきで息絶えていた》

 

スペインには偉大な言葉がある:Qué será será.

 

 

日本のNHK教育テレビに当たるTVEのチャネル2で日曜日に闘牛が放送される。闘牛の様式美を訴えているようだ。

 

雄牛が闘牛場に放たれ、まず馬に乗った槍方が雄牛の肩を突いて弱らせる、続いて3人のもり打ちが合計6本のもりを肩に打ち込み更に雄牛を弱らせる。そこでマタドールが現れて雄牛をかわしながら止めをさす。

 

これを見ていると、雄牛にとってはあまりにもアンフェアーな戦いで様式美などは一向に感じない。ただ残酷な感じしか残らない。

 

僕は40年にわたる企業生活で、スタッフには冷酷だが家に帰ればペットに異常な感情移入する人を数人見てきた。

 

人間という身勝手な生物と付き合う動物は大変だろう。

 

スペインの小説を読むと感じる。今まで馴染んできた米国のヘミングウェイやチャンドラーの文体、センテンスが短くクリスプなのに比べて何と冗長なのかと。まして日本語にないセミコロンで文章を繋がれると頭の中がグシャグシャになってしまう。

 

レアル・マドリードのホームのベルナベウ競技場は家の近くだったのでよく散歩に行った。

レアルの試合の入場券は試合の前の週の水曜日にソシオ(後援会員)、木曜日にはマドリード市民、金曜日はそれ以外に販売する。


金曜日組の僕はバルサとの入場券はお呼びではない。そこで競技場の周りを散歩するとダフ屋が寄ってきて、日本語で《券アルヨ》。


1902年に開場した競技場はピッチの長手方向が南北を向いていて、西日が当たらない方が上席になっている。


フランコが政権を掌握して25年目の1974年に《25年の平和》の大式典がベルナベウで9万人を集めて挙行された。


紀元409年にローマ帝国がイベリア半島で消滅して以来、戦争のない25年をフランコが成し遂げたというデモだった。フランコの得意満面の記録映画はまだ見たことはないのだが。

 


 

Lauburu | スペインで | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

イルンの生活

 

イルンの市場で買い物をするとき、今の為替レートの1ユーロ=130円は日本の物価と比較して生活実感に合っている。


1ユーロが100円を割り込んだとき、元々日本よりも安い食料品が更に安くなって《こんなのありか》と思うほどだった。


1ドル=100円が生活実感から妥当なレートだと昔から云われてきた。今の為替レートは正常値に戻っただけなのだろう。


マスメディアは円高になれば輸出産業は壊滅すると騒ぎ、円安になれば輸入物価が高騰して庶民を苦しめると騒ぐが、一体どこを適正な為替レートと考えるのかを聞いたことがない。気楽な稼業だ。

 


かなり前にAmaraという高級スーパーができたが、僕のお目当ては此処でしか売っていない白菜(col china:シナキャベツ)だ。とびきり辛いギンディージャと切り昆布と塩を混ぜて重しを乗せて漬け物にする。


イルンでも健康食品店で醤油、日本酒、味醂、昆布、わかめ、豆腐が手に入るようになった。日本米は電車で20分のサン・セバスティアンで買ってくる。


イルンでは美味しい牛肉、豚肉、鶏肉が豊富で安価だ。これに加えて醤油と日本米があれば何の不満もない。


でも洋食が好きな僕は銀座の老舗の《みかわや》の牡蠣フライや《煉瓦亭》のトンカツが目に浮かぶ。老境の郷愁だろう。

Lauburu | スペインで | 19:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

スペインでの10年

 

スペインに居を構えて10年を過ぎた。他国に住む以上その国の文化の凝縮体の言語の習得と読書は必須だと思い多くの歴史書、政治評論、文学を読んだ。

それでスペインについて何が分かったのか。何も分からなくなった。

分かったこと:《スペインはスペインとはという最大公約数では括れない》異質な実態の集合体なのだということだけだった。

 

バスク語、カタルニア語、ガリシア語が共存する国ではスペイン語という表現はあり得ない。標準語のカスティージャ語という表現だけだ。

バスク人、カタルニア人、ガリシア人が共存する国では、スペイン人はスペイン国籍を持つ人の総称に過ぎない。日本人=日本民族とは全く違う。

 

統一国家の中で、17の自治州が自己の文化を主張し地域分立主義を唱え中央政府からの遠心力を強める。単一民族、単一言語の日本人から見ると、このまとまりのなさがスペインの《ある意味での後進性》に繋がっているのではないのか、とも思う。

そこで思う。スペインは現代社会が否応なく押しつける均質化と画一化とはほど遠い存在だ。それが価値を持つ時代が来るのか来ないのか、僕には分からない。

 

いま異なる言語や文化を持つ国が集まったヨーロッパ共同体の諸課題を見ると、とうの昔からその課題を内蔵してきたスペインは先達なのかも知れない。

 

スペインは2008年の不動産バブルの崩壊後の後遺症に苦しんでいる。           失業率が50パーセントを越す若年層が国を見捨てて外国に逃避するのは国の未来にとって致命傷になりかねない。

日本の1991年の不動産バブル崩壊後の失われた20年を思うとスペインの先行きもまた苦難の道だろう。

ヨーロッパ共同体の幹部が非公式ながらバスクとカタルニア以外のスペインは去れと云ったとか。

 

2009年の米国のサブプライムバブルの崩壊もそうだが、性懲りもなく繰り返される不動産バブルは人間の宿痾なのだろうか。

いま浮かれている中国の不動産バブルの崩壊は十分に予測可能だ。

Lauburu | スペインで | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |

ダリ特別展

ダリ特別展が4ヶ月開催されたマドリードのソフィア王妃美術館は70万人の入場者を数えて9月2日に終了した。

 

高校生の時に画集で《内乱の予感》を見て奇妙に感じてしまった僕はマドリードに行って特別展を見たいと思った。だがニュースで見る長蛇の列を見て遠慮した。

 

ダリの作品は多くの美術館に四散していてまとまったものを見る機会は少ないので多くの人が押し寄せたのはもっともだと思う。パリでの特別展では80万人を数えたそうだ。

 

ダリが生まれたフィゲーレスを車で通った時にダリ美術館を訪ねたががっかりした。ダリの小品が細々と展示されているだけだった。

 

ダリが語った不可解な言葉がある:《私はそれほどのヒトラー主義者ではないが、ヒトラー主義には、まさに今の若者が求めてはいるが見いだせない多くのロマンティシズムや魔術のハローがあったと認識している:Yo, aunque no he sido nunca muy hitleriano, reconozco que había en el hitlerismo una gran dósis de romanticismo, un halo de magia, que es exactamente lo que los jóvenes de ahora están buscando y no encuentran

また:《ヒトラーは大したヤツだ。我々シュールリアリストはキチガイの振りをしているだけだが、ヒトラーは本当のキチガイだから》

 

ダリ特有のどぎつい趣味の悪い冗談だとは思っても、何かを考えさせるインパクトがあるのは事実だと思う。


Lauburu | スペインで | 17:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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