2017.04.17 Monday
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闘牛にもフラメンコにも関心がない人間が、1975年に食べたタパスの味が忘れられなくて、2002年にスペインに来てマドリードからバスクの街イルンへと…
その生活で頭に浮かんだことの用途のない備忘録
2016.07.30 Saturday
最近田中角栄への評価が高まっている。そんなものかなと思う。立花隆と児玉隆也の《田中金脈の研究》を読んだとき僕の心に残ったのは児玉隆也の方だった。立花は何となくうさんくさいと思ったのだった。その後児玉は癌で早世し立花は知の巨人としてもてはやされた。オウム事件のときにTVの対談で当時無名だった有田芳生の詳細な調査を聞いて立花はせせら笑った:《私はもっと大きな事実を知っていますよ》、有田が《それは何でしょうか》と訊いたとき、立花は《そのようなことは軽率には云えませんよ》といって相手にしなかった。その瞬間に僕は立花が張り子の虎の偽物だと確信したのだった。
アーリア民族至上主義を論拠に他民族を抹殺したヒトラーを思い出す。身勝手な定立を自分はそれが正義だと思い込む悪魔的独善。僕はそれが特異な人間の心性なのかと自問する。僕は既往症のある高齢者なので社会が見る身体障害者の目も分かるような気がする。認知症の高齢者や身障者を見て目障りだと思ったことがない人がどの位居るのだろうか。
《川を渡って木立の中へ》のニック・アダムスを思い出す。イルンに来て海辺や川沿いの路をウオーキングしているうちに悩みの種だった右脚の不全が劇的に改善した。転地療法とはこういうものなのだろうか。明らかに脳への刺激が違っている。早暁にビダソア川の支流の小径を渡って木立の中を歩くときフッとヘミングウェイの名作を思い出すのだった。
2016.07.29 Friday
僕は最近人口に膾炙されている《病み上がり》の高齢者だ。それだけに自分の《老醜》について細心に分析している。老醜とは:《与件を演繹して結論を導く能力の欠如。論理を組み上げて行く精神的持続力を失って結論に飛躍してしまう》。《異論に対しての柔軟な論理の展開が出来ずに切れてしまって激高に走る》のが老醜だと思う。鳥越氏は僕の懼れを映す鏡のような気がする。それを進言する人は居ないのだろうか。あまりにも哀れなピエロだ。
2016.07.27 Wednesday
鳥越氏が伊豆大島で《島の生活を活性化するために消費税を半額にすることを政府に働きかける》と云ったという。抱腹絶倒だ。政府がこれを認めれば、僕の記憶では500弱の離島住民も減税を要求するだろう。また過疎に悩む地区の住民も離島だけの問題ではないと減税を求めるだろう。政府が鳥越の妄言を認めるわけがないのは子どもでも分かることだ。もっと呆れたのは鳥越がフランスのコルシカ島の発展は低率の税制によっているといったことだ。スペインの17の自治州は独自の憲法を持っていて僕の目にはスペインは17の国の集合体と映る。だがコルシカに行ったときスペインの自治州よりも独自の権限を持つ自治体であることを知って驚いたのだった。バスクもカタルニアもコルシカも独自の民族性と言語を持つ共同体で中央政府にとっては目の上のたんこぶだろう。どうせ思いつきの妄言を云うなら:《私は外交以外の面で政府から独立した東京自治合衆国を確立する》。アニマル・ファームの豚の演説みたいだが。
2016.07.27 Wednesday
TVEのニュースで相模原で19人が殺されたと知って一瞬日本にもテロがと思ってゾッとした。事実はテロではなく《一種の精神錯乱》の上での凶行だったようだ。高齢者の僕は東京では一人住まいで、何時も気をつけているのは何かの外乱を受けると精神のバランスを崩すかも知れないということだ。僕もそうだが現代の都会生活では年代に関係なく人間は孤立しがちで、PCやスマホで仮想の社会との付き合いが正常だと思い込んでしまう。そこには生身の人間の論理や倫理が入り込む余地はなくなる。精神的な迷宮に入ったときに、海外にいる親族がその脱出口になっている僕は幸運なだけだと思う。
殺人者は宛てのない考えを巡らしたのだろう、そしてプツンと切れてしまった、と僕は思う。
2016.07.23 Saturday
《野球部員の喫煙がぼやに繋がった強豪校が地区大会準決勝への出場を辞退した。いつまで、このような軍隊まがいの「連帯責任」がまかり通るのだろうか。(豊浦彰太郎)》
高校野球は教育の一環だと《独裁者》の高野連が云い、《大政翼賛会》の朝日、毎日、NHKが賛同する。甲子園で野球屋さんとは無縁な学校は何校あるのだろう。僕は甲子園がプロを目指す高校生の登竜門であっても悪だとは云わない。立派な就職活動だから。教育の一環だというような偽善が気に入らないだけだ。NHKのアナ、解説者、インタビューを受ける監督の言葉を聞いていると暗黙の語彙制限があるとしか思えない。人間のほとばしる感情が見えてこないのだ。豊浦氏の云う《軍隊まがい》の偽善が嫌なのだ。
《テンガロンハットは封印です。ゴルフのリオデジャネイロ五輪代表に決まった片山晋呉が五輪ではトレードマークのテンガロンハットをかぶらないと話した》
かなり前に故大橋巨泉氏が海外の試合でみっともないテンガロンハットをかぶるなといっていた。僕も全く同感だった。人間の美意識は千差万別だがゴルフにはゴルフの美学がある。テキサスの牧場でゴルフでもしたらどうだと思ったのだった。
イルンには小糠雨がよく似合う。バスクの緑を育む天の恵みだから。昨日今日と僕は小糠雨をついてウオーキングに出た。偏西風のためにヨーロッパの雲の動きは速く、前線が停滞してジクジクと雨が続くことはない。歩きながら頭に浮かんだのはジーン・ケリーの《雨に唄えば》だった。渡辺はま子の《こぬか雨降る港の町の・・》ではなかった。
2016.07.22 Friday
イルンに舞い戻ってはや10日が過ぎた。インフレで不景気とはいっても食材の消費意欲は強いし豊富だ。5年も前のことだった、友人夫妻が食のバスクに興味を持ってサン・セバスティアンにやって来た。ピンチョスはもちろんワインにも興味を持ち、とくに味覚の鋭い奧さんが《このワインは素晴らしい、失礼ですが幾らですか》、僕が答えると《信じられない》という。日本でスペインワインが知られていないのはスペイン人が自ら云う《商売下手:mal vendedor》なのだろう。その時に友人が訊く《スペインの人口は》《4200万人だよ》、《全国民がグルメだからどこのレストランに行っても安心なのだな》、《?》。彼は云う:《オレは建設機械の売り込みに貧富の差が大きな国に何度も行った。日本料理とは云わず西洋料理が無性に食べたいと思う。しかしそのようなレストランは地元の人には高嶺の花で羨望と憎しみの的になるのだよ。オレはプライドにかけても行かなかった。キミはスペインに住んでいてピンと来ないだろうがね》
スペインでは日曜と祝日には店が閉まってしまう。ではカレンダーを見れば良いではないかと思うだろうがそうは行かない。各地方に独自の祝日があるからだ。スーパーに行くと顔なじみのレジの女性が:《ようこそ、また避暑(veraneo)ですね。バスクでは25日はサンチアゴの日で祝日なのを知っていますか。日曜と月曜が休みになります》。今日は22日の金曜日だ。明日は買い出しに励もうか。
2016.07.21 Thursday
高校生のときだ。大橋巨泉のジャズ評論をラジオで聞いたとき思考が複眼的なことに驚いた。僕は何故かなと思う。もしかして発想の違う外国語の知識によるものではないのか。巨泉は現代の高杉晋作だと思う:《面白くなき世を面白く》。合掌。
30年前に末期癌の身内を看病していたとき激痛を抑えるモルヒネが処方された。確かに激痛は抑えられるが副作用の幻覚は悲惨なものだった。後になって米国の医療に詳しい人と話をしたら:《末期癌患者への鎮痛剤の処方の仕方は日米では雲泥の差がある。日本は米国の足下にも及ばない》。30年経った今でもその状況は変わらないのだろうか。
谷垣氏の事故に思う。僕は75歳の時に40年来のスポーツサイクルを止めた。バランスを崩しての落車が大怪我につながる可能性があるからだった。スポーツサイクルでの落車の痛さは経験者でしか分からない。高さ1メートルのところから地面に叩きつけられるようなものだから。自転車愛好家として谷垣氏の無事を祈りたい。
2016.07.19 Tuesday
この時期スペインで楽しいのはツールドフランスの実況中継が見られることだ。最も過酷なステージでは7000Kcalも消費するという。それにしてもフランスの田園風景は絵になるし上空からの映像は観光旅行の必要もないくらいだ。自転車好きの僕に女性が訊いたことがあった:《自転車は脚が太くなるので嫌なのです》。競輪のような短距離で力任せの競技では高速ギアーを使えるような太い筋肉が必要だが、ツールのような20日で3000キロも走破するときには軽いギアーで高速で脚を動かす俊敏で耐久力のある筋肉が必要だ。サイクリングは美脚に有効ですよ。
環境は思考を支配する。僕の持論だ。イルンで僕は日本語思考回路を西欧言語回路に切り替えてスペイン文学、政治評論を読んでいる。僕は世界で支持される村上春樹が芥川賞には縁がなかったのは良く分かる。チマチマした私小説の範疇を超えた空想の宇宙を飛び回るからだろう。スペインの村上の翻訳者は忠実な仕事をしているが、さすがに《ノルウエーの森》には参ったらしく《Tokio Blues》になっていた。
2016.07.17 Sunday
2008年のナダル文学賞をとったフランシスコ・カサベージャの《僕がバンパイヤについて知っていること:Lo que sè de los vampiros》を読みかえす。
奇妙な壮大さを持った人間の矜持と生への執念と狂気の作品とでも云うべきだろうか。
この本は私小説全盛の日本では現れることのない発想。鳥もちに絡まれたような粘着力。理性と狂気と幻覚と醜悪の化合物。作家はこれをバンパイヤに見立てているようだ。
18世紀に起こったスペインでのイエズス会士追放令で数奇な運命をたどった若い見習い修道士の苦難の物語。
登場人物は全て生きるための執念と狂気の雰囲気を持つ。読み進むうちにフィクションを通り越して、作者に精神的あるいは肉体的な普通でない何かを感じて不安を感じることもしばしば。人間が持つどろどろしたものを、あからさまに露呈するのを読む息苦しさ。
そして作者は受賞した年の12月に45歳で心筋梗塞のため急逝した。僕の漠然とした懸念が現実になったのでかなり驚いたのだった。しかし、日本人の僕とは全く異なる発想と接することが出来た偶然もまた噛みしめた。そう云えば三島由紀夫氏が、読んで不快さを感じないものは小説ではないと云っていたのを思い出す。このような大作が日本に紹介されないのは残念だが、英語万能の世では仕方がないのかも知れない。
イルンでナバラの赤をお供に好物のイベリコ豚やカモの胸肉を食べているうちにエンジンがかかってきた。知り合いからあまり気張らずにお読みなさいと渡された宮部みゆきの文庫本と共に、スペイン文学の読破にも気合いが入る。
日本で本を読んでいると普通の教養を身につけていれば常識でしょうと云わんがばかりに漢籍が引用されるが、スペインではラテン語がこれに該当する。これが厄介だ。もちろんラテン語の辞書は持っているがスペイン語と同様に文法を知らないと辞書の引きようがないのでスペイン語から類推する。
《credo quia abusurdum est》に出会ったときスペイン語にすれば《lo creo porque absurdo es》と分かるのに半日かかったのだった。日本語にすれば《不条理であるがゆえに私はそれを信じる》と云うことらしい。
突然、学生時代に読んだ埴谷雄高氏の評論集:《不合理ゆえに吾信ず》を思い出した。人間は本質的に矛盾した混沌たる存在なので、人間の行動を科学的合理主義で理解しようとするのは不可能だ。近代の過剰な科学的合理主義への反省。不条理とは常人にとって予測外の行動や思考様式を持ち普遍的なことには同調いことを意味する。
2016.07.16 Saturday
僕は若い頃から英国の生物学者Richard Dawkinsの言葉:《全ての生物は遺伝子を後世に伝える“キャリアー”に過ぎない》に共感している。僕は70歳のとき3人の娘と6人の孫を持っていたので、もうキャリアーとしての勤めは終わったのだと思った。その時に頭に浮かんだのは:《鮭は子孫を残すために傷だらけになって母なる川を遡上し産卵が終わると死んで行く。鮭はその運命を知っているのだろうか。もし知っているなら何と可憐なことか》。僕は8ヶ月前に初めての大病の脳梗塞を患った。その時に費用を分析した。3割自己負担から国庫の負担を割り出し、後期高齢者年間保険料57万円から引き算するとまだ僕は貸し方だ。もし借り方になったらどうするか。対人地雷は敵の兵士を殺すのではなく重傷を負わせて敵の兵力を麻痺させるのが目的だ。若い世代の力を削ぐようなことは絶対にしたくないので身体中の筋肉が悲鳴を上げるほどリハビリをした。いま長女一家はバイオリンのワークショップに参加してイルンには不在だがそれもよし。高齢者は毅然とした孤独の中で、どのように人生に終止符を打つかを考える必要があると思うから。イルンの涼しいが鋭い日差しの環境は僕に新しい発想を与えてくれるかも知れない。
《マルコメマルコメ〜マルコ〜メみそ――。みそ大手マルコメの有名キャラクターを最近見かけなくなった。縮小するみそ市場が背景にあるようだ》
僕が二十歳のとき東京の《日の出味噌》会社の息子に軟式野球の助っ人を頼まれた。芝公園の草野球場に行くとユニフォームが渡されたのでよく見ると背中には 《そ》と書いてある。試合前の挨拶のときは順番に並んで下さいとのこと。それぞれの背中を並べると9文字の《おいしいひのでみそ》になるのだった。日の出 味噌はまだあるのかしら。
《今夏を最後に休部するPL学園が初戦に臨み1点差で惜敗。試合後のナインは泣き崩れ、嗚咽を漏らす選手や、泣きながら応援席に向かって「申し訳ありませんでしたっ!」と叫ぶ者もいた》
左り前のPL教団の意向で野球部は解散に追い込まれたのに何とも気の毒なことだ。日本の組織社会に未だ色濃く残る忌まわしい思考を思い出す:『君君たらずといえども、臣臣たらざるべからず。